Forever
2003.10
ack-ack'通信 9月2日(火) 正午 巨星墜つ!
 
  その日は突然やって参りました。一週前の日曜日にお見舞いに伺った際、呼吸器を付けてウトウトされており話すことは出来ませんでしたが、お顔を見ながら3分ほど手を握っている内に、もう一度は必ず共演出来ると確信しましたので、知らせを受けた時は、驚愕、絶句、悲嘆・・・頭の中は真っ白状態に!9月7日・通夜式、9月8日・告別式。両日とも1時間前の読経から参上、ご遺体に花を添えてお別れ、棺を担ぎ、斎場にてお骨を拾い・・・あっけなく全ては終わりました。合唱!
 ボスは「湿っぽい話は止めろよ」と云うに決まってますので、ボスらしい思い出を。先ずは斎場から?奥様の育子さんとも話しましたが、三崎クラブのオーナー、ドン・竹内氏(同店での年2回のライブでは毎回、「笈田さん分かってんね〜!どっちか死ぬまでやんだかんね〜」の掛け声でスタート)が亡くなった際、ボスと共にお骨を拾った現場(2001.6/12)?なのです。多分ドアの向こうにドンが待ってて「あっ来た来た!分かってんね・・・?」と声掛けられてるに違いないと思いました。沖縄に向かう機中でボスが「西、ちょっと」と後部座席に移ると「三崎クラブ・ライブには本当に感謝してる。ライブも数多くやってきたが、毎回(計12回)全員がこんなに喜んで迎えてくれ、リラックス出来るライブはない。色々勉強になり励みになってる。機会を与えてくれて有り難う。」と大真面目な顔?で、又、ドン・竹内の通夜の席で献杯を重ねつつ原田忠幸氏に「ター坊さ、俺達はあの世に言っても、西に仕切られてんだろうね」。ターさんの「多分そうでしょうね。」に「楽で良いね〜」と小生に笑顔を向けて・・・!どちらも一瞬ジーン・・・でした!
「わたらせ花火事件?」
一昨年の夏、花火大会前夜祭でのお話。リハーサルが終わり楽屋に戻ると「フィナーレのA列車〜は、スウィングがなければ意味が〜の方がカッコ良いな、ウン変えよう!」。レパートリーになかった若手女性シンガーは大慌てで譜面を手配、歌詞を覚えるのにテンヤワンヤ!小生、長年の経験から?彼女の徒労に終わらねば?と願うなかコンサートはスタート。進行もスムーズに、さて、フィナーレ・・・ボスは期待を裏切らず、いきなり「オール・オブ・ミー〜」と歌い始めまして、ステージ上の全員思いっきり大コケ!!キー違いなのをまともに歌った若手女性シンガーは大変な目に・・・バックステージでは、A列車〜からスウィングがなければ〜への変更を本部に伝えたばかりなのに、オール・オブ・ミー〜と来たものだから、実況中継で曲名テロップを流しているケーブルTV局から緊急問い合わせが、本部からは花火を打ち上げる合図のフィナーレ曲が分からなくなり、この曲で良いのか、スウィングがなければ〜もやるのかとか、小生がドラムを敲いてる後ろで、それはもう大変な騒ぎ・・・でも、ボスは全くたじろがず涼しい顔にて目出度く?終了! あんたが大将の面目躍如でした。
作年一月、窪川・美馬旅館・跡取りの結婚披露宴 参席者多数のため、中庭にステージを組んでの演奏となりましたが、ボスの第一声「長年歌って参りましたが、お座敷のお客様も珍しいですが、より低い所からお届けするのも初めての経験で、何とも奇妙な感じで〜」・・・いや〜大受けでした。





今年五月、三田・シュヴァリエでの披露宴にて、アントニオ・猪木氏らとの談笑スナップ。いえ、ボスには何事もなく、むしろ大雨でびしょぬれになった小生のヘア・スタイルの方が問題でした。
まだまだ、話題は尽きませんが確認出来た笑い話を一つ!ボスが亡くなった翌日、オール・オブ・ミー・クラブにて知る人ぞ知る?倉三先生が「今夜バードランドで聞いて恥ずかしながら号泣、コージーエルに寄って、又・・・」と話し掛けて来られて同席者一同でご馳走になる次第と相成り、以前からの疑問として、「だいぶ前にオール・オブ・ミー・クラブでボスと演奏してる時、カウンターにいらっしゃいませんでしたか?」。実はボスが演奏後「西、さっき倉三いなかったか?」と聞くので、「確かにいたと思いますよ、変ですね?」と答えると「途中で来て、終わって見ると居ないなんて、彼奴にしては変だよ。幽霊でも見たかな?」と云ってましたよと、問いましたら、闘病中の病院を抜けて来たので皆さんに心配を掛けてはと顔だけ見て帰ったそうなのです。いつ会っても「飲もう、飲もう!」と人懐こい倉三先生ならではの疑問が氷解しましたね・・・ボス!
追 記 9月6日(土) コージーエルお手伝いシンガーズ大集合!3回目ともなれば全員余裕たっぷり?!大勢のファンの皆様に囲まれて気分良く歌えたと思います。シンガーのネーム入りの福袋も皆様に大好評、とても喜んで貰えて良かった、良かったで〜す。次回がまたまた楽しみになりましたね。
9月27日(土) ack-ack'Live vol.176! 今回は年に一度のK氏軍団+町内会Gのリクエストによる会にて当方の収支は相当に気楽で御座いまして有り難いことです。O女史トリオ、T氏Duo、Y氏(上記、倉三先生)、M氏 with 石田一美(vo)、コージーL・ゲスト3、実に久方振りのK氏カップル?と入りは上々の中、榎本秀一のローランド・カーク張り2ホーン同時吹奏には大拍手!歌手もママ・L+お手伝いシンガー・道下あずさ+石田一美嬢の飛び入りと実に華やかでこちらも拍手喝采でした。 皆々様、有り難う御座います。
 今号はボスの喪に服しまして薄墨版にてお届け致します。破茶目茶ライブ参加の皆様の写真は賑やかに参りたく来月号に致しました。お急ぎの方は?HPをご覧下さ〜い。広告主の皆様にもご理解頂きまして、ご了承の程、よろしくお願い致します。
読者のホ−ム・ページ (74)  よっぱライフプランナー
 
タイガースが18年振りのリーグ優勝!1985年のリーグ優勝後、17年間でAクラスは僅か2度。ここ10年間に限れば4年連続最下位を含め全てBクラスと低迷した「ダメ虎」を見事に再生させたのが星野仙一監督だった。2002年からチームを率いた監督は、中日監督時代と同じく、時には鉄拳制裁も辞さない厳しさでチームに染みついた“負け癖”を一掃していった。その一方、気配りで選手の心を掴んだ。アメとムチを巧みに使い分ける人心掌握術でチームを戦う集団に変身させたのである。“長年に渡る球団運営のやり方の間違いに気づき、やっと正しい道を歩みだした事が勝因の第一である"と前監督の野村克也氏はコメントしている。昨オフ、久万オーナーを始めとする阪神電鉄の幹部に対し、星野監督が怒気を含んだ声を張り上げた。「皆さんは本気で優勝したいんですか。その気が無いなら、僕は監督を辞めてもいい。」これが、球団史上最大の約20億円という資金援助につながり、金本、伊良部らの戦力補強になった。また、現場については全て監督に一任とし、フロントの口出しをシャットアウトしたことも一因であろう。阪神優勝の興奮も醒めやらぬうちに、巨人原監督の辞任が発表された。今期優勝を逃し、ふがいない成績に終わった事の責任をとるというのである。昨年日本一になった監督にも拘わらず、2年でというのは何とも釈然としない。原監督がフロントの現場介入に不満を伝えたら「生意気を言うのなら辞めさせてやる」となったのが原因と言われている。本当のところは、“辞任"ではなく“解任"なのだろう。「監督はクビになる為に雇われる」という大リーグの格言もあるらしい。球団運営の間違いに気づき強者への道を歩み出した阪神、それに対して現場に口出しするフロントの精で一歩後退してしまった巨人。原監督の辞任について星野監督は、「せっかくの若い芽を摘んでどうするんや。そんな甘い世界じゃない。背広組にはもっと勉強してもらわんと」と激怒している。 2000年11月ラグビー日本代表の平尾監督が辞任した。1997年に就任してから約4年間、代表チームを率いながら結局成果が上がらなかったからである。やはり、“辞任"というより“解任"であろう。平尾監督は伏見工業時代から全国にその名を知られ、同志社大、神戸製鋼で数々の栄冠を掴んで引退。その後、人気低迷する日本ラグビーの救世主、切り札として代表監督に起用された。成績もかなり上がり、前回のW杯では残念ながら全敗という結果に終わったものの、次回のW杯に向けて若手に経験を積ませる等、中期的戦略で強化を進めていたのである。前回W杯で惨敗したのは平尾監督の責任だけではなく、代表チームを強くすることに対して、ラグビー協会を初めとして日本のラグビー界全体の強化体制が問題だったように思う。10月10日からオーストラリアでW杯が開催される。平尾監督の後を受けた向井監督は、この約3年間の強化の成果が問われる戦いとなる。先日開幕した“トップリーグ"が、Jリーグと同じ様な成功を収める為にも、代表チームの勝利が必要になってくる。世界のトップラガーマンが芝生の上で死闘を繰り広げる姿を想像すると、興奮して目が冴えてきた。そう言えば先日亡くなられた笈田敏夫さんは「アンチ巨人」を自称されてましたが、野村監督時代にヤクルトの優勝祝勝会に駆け付けると、監督から「笈田さん本当は巨人ファンなんじゃないの・・・ウフフフフッ?って笑われちゃったよ」と苦笑いなされてたのを思い出しました。お酒を飲めなかった笈田敏夫さんを偲び「Forever/TOSHIO OIDA」を聴きつつバーボンで献杯!向井ジャパンと星野阪神とパ・リーグ優勝チーム(執筆現在未決定)の激闘も祈念して・・・乾杯! 
第41回     ひと頃パラサイト人間という言葉が流行した。デビィ夫人と酒井政和氏との間で論争が展開されたことがあった。つまり自分では働かず他人に依存ないし寄生して生きる寄生虫的人間のことだ。そのパラサイト人間が急増の兆しを見せ始めている。とくに20代、30代の若い世代の中でパラサイト化が著しいという。学校を卒業しても就職はしたくないが遊ぶ金は欲しいという人種で、パラサイト・シングルと呼ばれる新人類が急増しているのである。この新人類の大半は協調性に欠け、努力や忍耐、妥協や協力等には全く無縁の人類である。就職をすれば一日の内の大部分を拘束され、上司の命令に従わなければならないことになるが、努力や忍耐の苦手な現代の若い世代にとっては耐え難いことであるらしい。就職はしたくないが金は欲しいというわけで親に依存することになる。親に限らず親戚中に寄生して迷惑を掛けまくるパラサイト・シングルが増えているのが現状である。親たちが懸命に働いて子供を育て、老後は子供や子供夫婦に面倒を見てもらうことなど半世紀以前の話である。現代の親達は生涯パラサイト・シングルにスネをかじられ続けて一生を終えることになる。「孝行をしたい時には親はなし・・・。」と云う言葉などは死語となっていることを現代の親たちは認識しておかなければならない。この様なパラサイト・シングルの出現要因を探ってみると、戦後生まれの親たちの育て方にも原因があると思われる。戦後生まれの現代の親たちは合理主義を基盤に懸命に働き金儲けに専念して来た。この親達は苦労や努力を重ねながら財産を築き、子供が将来苦労しないようにと願って頑張って来た。又、幼児期における養育過程を調べてみると、まるでペットを飼育するような可愛がり方が目立っている。親に金銭や財産を作ってもらい、ペットのように手塩に掛けて育てられた子供達に忍耐や努力を押し付けようする方が間違っているのである。むしろ金銭や財産を残さず、子供たち自信の努力で築くように育てて行くことが真の愛情であろうが、自分たちの苦労を子供たちには味あわせたくないと思うのも愛情の表現ではある。忍耐や努力が出来ない上に自制力、判断能力に欠けるパラサイト・シングルの増加は凶悪犯罪の発生につながっていくが、これらの防止は幼児期の教育に掛かっていることに築くべきであろう。
笈田敏夫先輩への鎮魂歌 #32 新 折人
  
戦後我が国ジャズ・ヴォーカル界の大スター、笈田敏夫さんが亡くなった。つい最近本欄の#30(8月号)でシナトラとエリントンをめぐる笈田さんとの会話を取り上げたばかりであった。笈田さんの経歴や実績については、多くの記録があるので、ここで書く迄もない。ただ、最近は、これほどの人を知らない若者も多い。笈田さんは不本意だろうが、こういう若者に「笈田さんは、NHKの紅白歌合戦に八回連続出場した人だ」と言うと、「エーツ」という感じで、大歌手であったことをようやく理解する。
  笈田さんは、1953(昭和28)年の第4回紅白に初出場した。笈田さん以前に紅白で歌った男性ジャズ歌手は只一人、第3回紅白で、「キス・オヴ・ファイヤー」を歌った、ディック・ミネのみである。この頃は、民間ラジオ放送が始まってラジオでジャズが盛んに流されるようになり、また日本のジャズ・ミュージシャンが「進駐軍クラブ」から巷(ちまた)に進出しはじめた、・・そんな時代だった。1953年に日劇で公演された「ジャズ・オブ・ジャズ」の観客層を調べた「週刊サンケイ」によると、16〜25才のファンが観客の70%を占めていたというから、如何に当時の若者がジャズに熱狂していたかが理解出来る。ところが、笈田さんが紅白に出ていた1950年代後半になると、世界的にジャズがロックに押しまくられる時代になった。1956(昭和31)年には、「ハート・ブレイク・ホテル」でプレスリイがデビューした。日本でも1958(昭和33)年には、日劇で「ウエスターン・カーニバル」(内容的には「ロカビリー・カーニバル」)が始まった。笈田さんが最後に紅白に出演した翌々年の1962(昭和37)年には、「ラヴ・ミー・ドゥー」でビートルズがデビューした。そうした時代の端境期に、笈田さんは、紅白でひたすらジャズを引っさげて、その存在感を示していた。
  紅白は、もとより出場歌手の意向とは別に、その時々のヒット曲を取り上げる。笈田さんは初出場の時、シャンソンながら、英語詩がつけられてジャズ化し、サッチモのしゃがれ声で大ヒットしていた「バラ色の人生」を歌った。第5回から第9回までは、原則それぞれの年に映画でヒットした曲を歌っている。すなわち、第5回紅白では1954年の映画「愛の泉」の中でシナトラが歌った「スリー・コインズ・イン・ザ・ファウンテン」、第6回紅白では1955年の映画「慕情」の主題歌で当時フォー・エイセスの歌でヒットした「ラヴ・イズ・ア・メニィ・スプレンダード・シィング」、第7回紅白では1956年の映画「上流社会」の冒頭シーンでサッチモと仲間達が陽気に歌った「ハイソサイティ・カリプソ」、第9回紅白では、本邦公開1958年の映画「抱擁」でフランク・シナトラが歌った「オール・ザ・ウエイ」などである。但し、1957年の第8回紅白では、古い「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」(1911)を取り上げた。また1959年の第10回紅白で取り上げた「プリテンド」(1952)は、映画とは関係なく出来た曲で、極め付きナット・キングコールの名唱が、1954年頃以降日本でもヒットしていた。
  そして、笈田さんの紅白歴は、1960(昭和35)年の第11回紅白が最後になったが、その時歌ったのは、スタンダードの名曲「スターダスト」(1927)であった。ザ・ピーナッツの「しゃぼん玉ホリディ」が、この曲をテーマにして始まったのは、笈田さんが紅白で歌った翌年のことである。今、笈田さんは、例の前屈みで、ショート・ホープを指先につまんで紫煙をくゆらし、気迫のこもった眼光ながら優しい笑みをたたえ、マイク片手になおジャズ・ヴォーカルを追求しつつ、気のむくままに楽し気に「スターダスト」の中を遊弋(ゆうよく)しておられるに違いない。合掌。 
E・メール名作選-38
 
つまんないよぉ~...つまんないよぉ~...ネコって、ホント寝てばっかり!私はネコなのに、ちっとも眠くならないの。なのに、あさりおねえちゃまも、双子の相棒のむさしくんも寝てばっかり!!私、遊びたいのに、近頃みんな遊んでくれないの。いつでも遊んでいたいのは、私だけみたい..?よそのお家では、一人っ子で、お留守番ばかり...の子もいるんだから、私は贅沢だって言われるんだけど、つまらないんだもの。仕方ない....。でも、みんなが寝ている間に新しいお友達が出来たの。編集長に、私の新しいお友達を紹介します。ジャン・ジャ・ジャ・ジャァ~ンお友達は、セサミ・ストリ−トのティンゴ(Tingo)ちゃんです!頭にヒラヒラ・フリフリが一杯ついてて、かわいいの。それにすごく良く動くの。だから、テレビに釘漬け!!ティンゴが出て来るとテレビについドンドン近づいて、画面に張り付き状態。でも、すぐ終わっちゃう。そんなの、イヤだあ。又つまんなくなっちゃうじゃないか。テレビに向かって、“もっとぉ~!もっとぉ~!"って、にゃあにゃあ叫んでたら、飼い主が、楽しい時間は早く過ぎるんだ!と教えてくれた。そうか...で、私、いいこと、思いついた。そこで、編集長に、お願いです。編集長、もしくは、編集長のお知り合いで、ティンゴとお友達の人、いたりしませんか?もし、そういう人がいたら、是非ティンゴにお伝え下さい。
"TO...ティンゴちゃんへ....家に遊びに来てください。私、お掃除して(いいえ、なるべく散らかさないようにして)おもちゃもキチンと一列に並べて待ってまぁす..... FROM...さより "      Writen by...さよりちゃん with Musashi& AsariOtibi-Musashi &Sayori(^*^)