FOEVER          Toshio Oida  

笈田敏夫 スコア&パート譜 Library

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管理態勢が整い皆様にご利用出来るようになりました。

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ゲソの気まぐれコンサート・メモリアル
.2003.9月2午.ご逝去
御 礼
 故・笈田敏夫葬儀に際し、多数の方々に御弔問、御会葬いただきありがとうございました。
 「マイウェイは最後のレコーディングで」と言っていたゲソはその約束を果さぬ侭、
2003年9月2日逝ってしまいました。
 “生涯ステージシンガーであり続けたい”という言葉通り、旅立つ直前まで
ステージで歌うことができました。
 皆様へのお別れの品として、晩年のコンサートから「マイウェイ』をCDに
いたしました。3つのステージでの“ゲソ節“をお聴き願えれば幸いです。
「笈田と私」
 “笈田先輩!”と直立不動の姿努で挨拶していたあの頃。学生時代に出会って40年余、
マネージメントをお引受けして27年。いつの間にか、呼び名は“ゲソG"になっていました。
 ノンシャランで都合の悪いことは全て他人事にして、“知らん顔’’を通す
習癖に“怒髪天"の思いをしながら幾度“尻拭い”をしたことでしょうか。
でも何故か憎めない得な性格の持ち主でした。
 病床で見舞いに来られた友人に「フジワラにありがとうと云っておいて」と
頼んだ話を後で聞きました。毎日顔を合わせている私に対してはシャイで
最後まで直接ロにできなかったのです。
 ステージの仕事に関しては“決めてきた仕事”について一度も文句を
言うことがありませんでした。「ありがとう!」は私の方から言いたいセリフです。
 タキシードの良く似合うステージ姿が粋でお洒落でダンディーな、偉大な歌手でした。
               
                         プロデューサー  藤原忠男
ごあいさつ

 本当にいい人でした。楽しい人でした。一緒に居ると心なごみました。
 特にがんぼるでもなく、でも“いい加減”が“良い加減”に変わってきました。
 笈田は78年の人生をしっかりと生き、今、死をもって「生」を完結いたしました。
 笈田敏夫が、ジャズ歌手として78歳まで現役で歌い続けられたのは、
多く の皆様の支えがあったればこそと、心より感謝申し上げます。
 何よりも笈田の歌を愛し毎回コンサートにお運びくださった皆様、
本当に ありとうございよす。
 多くのミュージシャンの方々には大変おせ話になりました。
音響・照明・美術の皆様、日金・アガサスのスタッフの皆様、
毎回バックでステージをサポートして下さり本当にありがとうございました。
葬儀・告別式の折に、改めて皆様のお顔を拝見し、しみじみと人の繋がり
の有難さを感じました。
 いなくなると寂しくなりよす。もう少し生さていてほしかった。これが妻の本音です。
でもいたし方ありません。長谷寺の監院様は、「月落不離天」
(月は夜見えないが、天を離れてはいない。また明日顔をだすから)との
言葉をくださいました。 折々にジャズ歌手・笈田敏夫の歌声を
思い出していただければ幸いです。

                                      
 笈田育子
(プログラムご挨拶より転載)

 幼な馴染みと言うのか、親友と言うのか、喧嘩友達と言うのか、オッバチとの交遊は今年で70年になる。生半可じゃない年月だ。2人はジャンルの違いこそあれ同じ歌手という職業で、人生の殆どを過ごして来てるのだから凄いことだと思う。
 近年になり“ゲソとオッバチ”こだわりコンサートを始め、これまでになく一緒のステージが多くなった。この年で良くやっていると自分を誉めたい気持ちも芽生えてきたが、オッバチにも同じことが言える。総てを知り尽くしているつもりでいたが、一緒の仕事が増えると、オッバチの今まで知らなかった部分が見えて来る。舞台に対するひたむきな努力、音楽に対する妥協のない厳しさ、納得のゆくまで練習する姿勢、この総てが私には欠けていた気がしている。75才まで歌い続けてきた原点がオッバチにはある。しかもお客様への配慮が通り一遍ではない、テーク・ケアーもアフター・ケアーも行き届いて見える。今更態度には出さないが、オッバチへの尊敬の念が湧いて来ている。 結構いい加減に人生を送って来た私にとって、オッバチの言動は、私の目を開かせる契機になっていると言える。
 今年でこの企画もひとまず終了するが、この3年間のジョイントは、これからの歌手生活への大きなプラスになると、信じて疑わない。面と向かっては照れくさくて言えないが、改めてオッバチとの友情に“大感謝”と声を大にして言っておこう。
 それにもまして、我々のコンサートを支援して戴き、励ましてくださった皆様への感謝が一番!
 ありがとうございました。       
                      笈田敏夫
ゲソとオッパチこだわりコンサートV
  
2000年9月16日 於東京厚生年金ホール
 77th バースディコンサート 〜77回目のラブレター〜
 
2002年2月21日 於日本青年館ホール
(プログラムご挨拶より転載)

 
今という刻は-秒毎に過去になり,未来は-秒毎に確実に近づいている。
そんな移ろいやすい人生も,齢を重ねて本日、 77歳喜寿を迎えました。
途方もない長さを感じる一方、あっという間だったような気もします。
 今日まで大病もせず、仕事を続けることが出来た丈夫な躯に育ててくれた両親、
優しく温かく見守ってくれた家族に感謝しております。・・・が,
それ以上の喜びは,長い年月に亘ってはぐくまれた,皆様方との出逢いと
交流,そして数多くの励ましとご支援にあふれた77年間の人生です。
 "歌う"ことは私の人生そのものでした。"好きなんです"好きだという
一念が私を支えてくれました。
 今でも"歌う"なかで毎日新しい発見があります。これがジャズの楽しさであり、
音楽の魅力なのでしょう。奥が深く一生極める事の出来ない
巨大なジャズという存在の中に,私は埋没しています。
 そんな毎日が私にとって最高の幸せなのです。今日改めて歌い続けたい,という
思いが沸々と湧き上がってきて、出来ることなら、多くの皆様に
お越しいただいたこのステージを通過点とさせて頂き、叶うことなら、
3年後の80才にもう一度コンサートを開けたらと思います。
 その為には、自分自身の健康はもとより,多くのスタッフと皆様方の
ご支援を仰がなくてはなりません。
 今後ともよろしくお願い申し上げます。
 本日は本当に有難うございました。
                笈田敏夫
(プログラムご挨拶より転載)

 
若い頃、自分のコンサートを開くなどということは、夢のような話でした。
しかも、都内には今のような立派なホールも少なかったし、至難の業であったような気がします。それにもかかわらず幸せなことに、私は今までに数多くのコンサートを行って参りました。スタッフに恵まれたことが大きな原動力でしたが、私自身、ステージで歌うことが生き甲斐と感じていたからなのです。
 私は、常にステージシンガーでありたいと希ってきました。ライブのステージというのは、私にとって一番こだわりを持つ仕事なのです。生の歌は、
その時その時によって、生きています。ですから、毎日ステージで歌うことのスリルが私の生き甲斐なのです。
 昨年に継いで本日、こんな素晴らしいステージで歌えることの幸せを実感しています。コンサートを開くということは多くの皆様の力を拝借しなければなりません。また、来て下さる皆様なくしては成り立ちません。
ステージシンガーとして、もうしばらく歌いたいと云うのが、今の私の夢でも
あります。
 今回は、長い歌手生活に最も大きな影響を与えてくれた男性ビックシンガーの歌を集めてプログラムを組みました。
皆様それぞれの憶い出を姓らせていただける様、一曲一曲を大事に
丁寧に歌えたらと希っています。
 本夕は本当にありがとうございました
。                 笈田敏夫
ゲソの気まぐれコンサートスペシャル 78th
2003年4月訪日 於ルテアトル銀座



with   OIDA TOSHIO
ゲソの気まぐれコンサート 90 :70th Birthday & 50th Anniiversary ゲソとオッパチこだわり  コンサート
六本木ジャズ・クルージング 三崎クラブ・ライブ サンシティー・ツアー
大森ベルポート '95 77th  コンサート with ack-ack

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