2003.1 | |||
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12月21日(土) コージー・エル〜クリスマス・スペシャル・ライブ あいにくと小雨降る寒い夜、近郊は雪の予想もありで、キャンセルも御座いましたが、40名以上のお客様で店内は熱気ムンムン、超ホットなクリスマス・ライブとなりました。 かわ島崇文(ts)、寺下 誠(p)、福井五十雄(b)からなるack−ack’4をバックに、笈田さんをゲストに迎えての「大矢江美ディナーショー」風クリスマス・ライブも早いもので三回目。今回もプレゼントが二品もあり、皆さんに大変喜んで頂けました。ジャズ新年会もお年玉プレゼント付ですが、決して物で釣ってる訳では御座いませんので・・・ハイ?!この勢いで新年会も大いに盛り上がりたいものです。ジャムセッションですので皆様お誘い合わせの上、奮ってご参加下さい。有り難う御座いました。 12月28日(土) 破茶目茶ジャムセッション こちらはお天気快晴なるも、父上入院であわや司会降板かとヒヤリとさせた多摩川・・・じゃなくて、玉川のタマちゃん?But父上の状態も良好となり全試合連続登板が叶いました。開演が迫るもメンツとしましては、ドラマー&ヴォーカルのみ。かわ島崇文(ts)、金山正浩(p)、安久津泰久(b)からなるack−ack’4にて17回目のオープニング後、先ずはドラムワークショップ&ヴーカルでスタート。ドラム陣は、ジャージーO氏、静岡のパンチ・ドラマー・・・ヘアスタイルではないO氏、ルーツの最古参OB?I君(スタンド・バイ・ミーを唄って大受け)、サウスポーのS君夫妻、4年間以上ボーヤを務めたW君、叔父さんの原 正夫君と必ず帯同するN君、司会の締めにスタンド・バイ・ミーでソロをフューチャーされたタマちゃん。ヴォーカル陣一番乗りは越ケ谷から連続参加のH女史、続いてベテランI氏(プロ級のブルース・メドレーが大受け)、久方振りのWさん(絶好調)、声量豊かなT氏、ミッドナイトジャムもご常連のKさん、メル風歌唱はH氏、金さんと名コンビのI女史。インスト陣はウクレレで参戦した?大五朗君、トロンボーン&テナーサックスの名コンビI夫妻、デジタルホーンの名手Y医師、足利からの友人ピアニスト・原 正夫氏とバランスは最高でした。残念ながら、N軍団クインテットは人気バンドにつき浅草でのライブ終了後、タクシーで駆けつけてくれるも、オール・オブ・ミー・クラブを後に控えた小生とは「良いお年を・・・」の合唱のみでした。金さん&I女史、大五郎君などはベースを取りに帰ってまでのアフター・アワーズ・ライブとなり大いに盛り上がったそうですが、その様子は手に取る様に分かりま〜す・・・無念。次回は名コンビI夫妻のご提唱により、8月30日に決定しました事を、謹んでご報告申し上げます。演奏風景は2月号に掲載しますのでお楽しみに・・・。皆さん本当にお疲れ様でした。 |
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海軍航空機カレンダー2種! ![]() ![]() |
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プラモデル製作の第一人者・ショウリ田中氏(先輩ヴーカリスト)が、毎年製作(10年以上)している航空機カレンダーの作成に初めて携わりました(ようやく小生のテクも可能レベルに・・・?)。写真の合成、修正は根気のいる作業ですが、どうやら完成?氏の作品は汚れ塗装が見事な上、考証データも緻密なので眺めてるだけでも楽しくやり甲斐がありました。かくして、初のオール・セピア・カラーによる2003年海軍航空機カレンダー「図書刊行会」が仕上がりました。ご要望の方はご連絡下さればお届けしま〜す。小生の作品を是非見てやって下され!?右図のカラー写真カレンダーも同様、潜行艇の海中シーンや零戦の帰投風景の創作など楽しいものでしたが、残念ながら「全国甲飛会」の会員への頒布品にて売り物ではありません。 来年も是非参加したいものです。乞うご期待! 1月26日(日) 古伊萬里ジャズ一夜! 「故郷に錦を飾るシリーズ?第4弾」を開催します。小生にとっては、小・中・高の同期生・恩師、プロ入り時の仲間・先輩達と一堂に会する事が出来て、幸せの一語に尽きるライブなのです。全員還暦の同窓会?も九州迄は伺えずでしたので、大いに楽しみにしてま〜す。今回は佐賀、博多他の皆さんの帰路を考慮しまして、早めの時間設定と致しましたので・・・日曜なので早すぎる事はない?、是非、皆様お誘い合わせの上ご参集下さい。(チケットのお申込はホテル、当方どちらでも結構です。)お追っ掛けも大歓迎で〜す!小生は2日ほど居残りまして、あちらこちらで旧交を暖める予定です!?!何か御座いましたらお誘い下され。 |
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読者のホ−ム・ページ (64) Dancing Lawyer![]() |
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やぶにらみ 第32回 エロール・アさカわ 上京以来30数年間、都内を走る各路線を利用して来た。中でも私が住んでいる「平井」を通る総武線、山手線、中央線の利用頻度は高い。時々、地下鉄・丸ノ内線、日比谷線、銀座線を利用する事で大体の用は足りている。長年、電車を利用している人は気付いている事と思うが、大勢の人々が毎日乗降する駅と車内では様々なドラマが展開されている。但し、其のドラマは私に取って決して楽しいものではなく、むしろ苦々しいものである。先ず、駅に向かうと周辺にはポイステされた夥しいタバコの吸い殻が目に付く。ホームに向かうエスカレーターに乗っていると、必ず何人かが私を押しのける様にして駆け上がって行く。電車が入って来ている訳でもなく、其れかと云って待ち合わせしている様子でもないのだ。目的の駅に着いてエスカレーターで降りる時も同様であるが、特に迷惑なのはハイヒールを履いた女性の駈け降りである。まるでエスカレーターを金槌で叩き割るかの様なけたたましい音をたてながら駈け降りて行くが、これとて急用がある訳でもなく、下まで降り切ると平然と歩き始めるのだ。人より少しでも早く上がったり下りたりする事で安心するらしいが、それだけ心の余裕がない証拠と云えよう。一歩車内に入ると、人の迷惑を気にすることなく携帯電話でシャベリまくる若者が目に付く。「エエーッ!、ウソーッ!、マジーッ?」と云う会話からして、さほど重要な用件でないことが判る。何十回となく車内アナウンスで「携帯電話のご使用は・・・」と繰り返しているが、「ウソーツ!、マジーッ!」の会話は延々と続く場合が多い。別に女性に恨みがある訳ではないが、最近マナー欠如の女性が増えている様に思えて仕方がない。殆どの女性が座席に座ると、先ず短い足を組む事になっている。それから、おもむろに携帯電話をピコピコやり出すか、鏡を取り出すと、拳が入りそうな大口を開けて口紅を塗り始める。非道いのになると電気アイロン?を取り出してカールを始めたり、弁当を広げて食べ始めたりする女性が居るのだ。周囲の人達が呆気に取られて眺めていると「何を見てるのよっ!失礼ねっ!」と云わんばかりの顔で睨み付ける始末である。又、端っこの座席が空くとサッと其の席に移動するのも、電車族の習性である。週末になると酔客ラッシュでウンザリだが、人身事故が発生して、度々、電車が止まるのは哀しいものである。 |
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フランス文化に衝撃を与えたミュージシャン達 #25 新折人 前回に引き続き、ついでだからフランスの話を続ける。アメリカでラグタイムがブルースを取り入れてジャズに変身しつつあった前後に、早くもフランスにジャズ風音楽を紹介した貢献者達についてである。先ず、「星条旗よ永遠なれ」(The Stars and Stripes Forever)[1896]等を作曲したことで有名なアメリカの「マーチ王」、ジョン・フィリップ・スーザ(1854〜1932)を挙げねばならない。彼は1900年の「パリ万博」に「スーザ吹奏楽団」を率いて登場し、"My Ragtime Baby" (1898)など、ラグタイムの曲の多くを演奏した。これが当時のフランス人に、いたく新鮮な印象を与えた。そればかりではない。その演奏は、クラシック音楽家までにも影響を与えた。例えば、クロード・ドビュッシー(1862〜1918)は、スーザ・バンドの音楽に強い感動を受け、以降「子供の領分」(Children's Corner)[1906]等、ラグタイムのリズムを素材にした、いくつかの曲を作曲することになったほどである。二人目は、1903年からハーレムで活動を開始していた黒人音楽監督の、ジム・リース・ヨーロップ(1881〜1919)である。彼は、日本人は知らない人も多いが、実はラグタイムやジャズ風のシンコペイテッド・ミュージックを広め、ニューヨークの音楽を早い時期からジャズ風に変えた男である。おまけに彼は、1914年、それ迄白人専用でクラシックの牙城であった「カーネギー・ホール」(Carnegie Hall)に125人編成という、信じられない様な規模のバンドを率いて出演した。大方の解説書では、「カーネギー・ホール」でジャズを演奏したのは、1938年に出演したベニー・グッドマン(1909〜1986)楽団が初めてであるとされてるが、そんなことはない。ジム・ヨーロップのバンドの方が、24年も早く出演している。その彼が、アメリカが第一次大戦に参戦するや、自ら志願して軍楽隊を率い、フランスに渡った。彼のバンド、通称「ザ・ヘル・ファイターズ」(The Hell Fighters)は、1918年2月初めから約1年間、激戦の中でフランスの25都市、2000マイルを巡行し、各地で戦争の暗いムードを吹き飛ばし、フランス兵士の遺伝子にジャズ風音楽の楽しさを植え付けた。三人目は、ニューオーリンズ出身のクレオールで、クラリネット/ソプラノ・サックス等の名手シドニー・ベシエ(1897〜1959)である。彼は1919年から24年までイギリス、フランスで演奏活動を行い、スイス出身の有名な指揮者、エルネスト・アンセルメ(1883〜1969)に、「彼の芸術はたぶん明日の全世界をもの凄いスピードで揺り動かすだろう。」と言わしめる程、一大センセーションを巻き起こした。ベシエはその後1951年にパリに永住する決心をし、現地で結婚し、そこで生涯を全うした。ベシエの "Petite Fleur"[小さな花(可愛い花)](1952)に代表される、独特のヴィブラートを伴った哀愁ある音色がフランス人を魅了し、彼はパリの英雄的存在として名誉市民に遇され、「ジャズ・フェスティバル」で有名なフランス東南部の港町、アンティーブ(Antibes)に彼の像が建てられた。四人目は、ご存知セントルイス出身のクレオール女性、ジョセフィン・ベイカー(1906〜1975)である。彼女は1925年にパリに現れ、舞台でラグタイムやチャールストンなどを野性的に歌い踊って、大評判を勝ち取ることになる。彼女のことは、筆者の思い入れ ![]() |
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E・メール名作選-30 (=^_^=)Writen byAYA with Musashi& AsariOtibi-Musashi &Sayori(^*^) ![]() |