2007.7
   平成19年7月号
2007#20/7〜226 since1988
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編集室パソコン千夜一夜物語−4!
先日、DELL8200のサウンドカード不調につき、パーツ店へ出向き色々と物色中、以前から欲しいと思いつつ、ノイズ低減が望めるとはいえ・・・?で、買いそびれていたUSB接続・外付けサウンドボードCREATIVE BLASTER Digital Music PXが目にとまり、即、購入!使ってみると、音色は格段に良くなり、一枚空いたスロット・スペースに冷却ファン(HD増量&増設、USB2&1392インターフェイスのランクUP等で発熱量増大?)増設。他の2台のPCでの利用も超簡単につき、ビデオから取り込み時も音源は当機経由可能となり、正にいうこと無しの、大当たり?只今、快調に稼働中にて、先ずは目出度し、目出度しにて、一件落着!
新宿・元ポニー店主・中島氏ご逝去 先月、車で高田馬場を通り掛かり、変わらず佇む松竹映画館?の前に差し掛かった時、45年前に上京後、直ぐ親しくなった中島氏を思い出す。ポニーは今はなく、併行して経営しておられたエスペラントは健在かなと案じつつ、7〜8年ぶりに訪ねますと、一見してそれと分かる息子さんがオーダーを取りに。安堵して「マスターは元気?」 と訪ねますと、頗る元気だったのが一昨年、階段で落ちて頸椎を損傷。肺炎を併発され亡くなられた由!小生自身の左腕骨折ともダブり、複雑な気持ちでしたが、よくぞ告げてくれましたと感謝。先ずはアイスコーヒーを頂きクールダウン!何を隠そう・・・してない!ack-ack'Liveはポニーで旗揚げし、ポニー閉店まで12回(現在197回)も、お世話になったのです!写真は'89年2月19日のack-ack'Live vol.5 でのものですが、縁は異なもの?奇しくも今月のJAZZ四季会に超久方ぶりに出演依頼した、大井貴司(vib)君と、亡き名ギタ−リスト・川上和彦(g)君がゲストでした。ポニーでのアルバイト経験もある福井五十雄君が吃驚したほどですから、知らないミュージシァンも大勢いるのでは・・・。此処に謹んでお知らせ致しますと共に、改めてご冥福をお祈りします。合掌!
6/24(日) 原 正夫ピアノ・コンサート佐野&足利アフターアワーズ
佐野市文会館自主企画による入場無料コンサートとは申せ、原 正夫君初のご当地コンサートでもあり、良い席を求めて早い時間から開場を待つ皆さんが大勢列をなしまして、結果的には1200名をも超える大盛況!正に脱帽でした。今だ健在の恩師&同期生ご一同30名程がステージに上がりセレモニー後、「浜辺の歌」をバンドと共に大合唱!いゃ〜、熱くスウィングして最高にハッピーなコンサートでした。小生はジョージ川口的ポジション?上を下への大騒ぎキャラバンを展開後、原 正夫君弾き語りのバックを一曲お務め致し無罪放免・・・これって年の精?6時からは足利の高級割烹にて写真の御三方(左より、M氏 cl、原氏、E氏p、H氏vib)を交えて大打上会。すっかり出来上がりました処で、8時過ぎにライブハウス・リトルバードに繰り込み、御三方の乗り乗りセッション開始。一曲目こそ原君と話し込んで叩き損ない?ましたが、その後は全曲参加!お解りのようにベースレスなのですが、これが又、楽しく、原君とのデュオを2曲も!降りると睡魔が迫るも、皆さんがオンステージする気配を感じるとシャッキリ状態となるのが不思議と思いつ、11時嗅ぎ迄!皆さんのタフさとジャズ好きには恐れ入りました。9月に皆さんがバスでクール・トレインへ乗り込んで来られるのを、今から楽しみに首を洗って待ってま〜す。本当にお世話様でした。 
読者のホ−ム・ページ (119)    Dancing Lawyer
 
最近,厚生労働省や社会保険庁(社保庁)は、年金問題等で体たらくの連続である。一体、これらの官庁は、これまで何をやってきてたのかと、憤りを感じる。国民の了解も無く、「グリンピア」等の無用な福祉?施設を「ど僻地」に多く作り、考え難い無駄使いをしてきた。その金額も半端な金額ではない。恐らく外国であれば、国民や市民のデモや暴動が起きても不思議ではないだろう。余りにも,日本人はおとなしすぎる。
私が思うには,「少子高齢化社会」になれば、今の若者には余りにも負担が多くなり、年金制度など自分たちが支給される時代(将来)には,既に破綻していると考えているのだと思う。従って、今20代・30代の若い人たちは、年金保険など払う気にならないのであろう。自分たちが65歳とか70歳の高齢になった時に年金が支給される保証は全く無いのだから当然であろう。今の政治家や官僚は(否,私も)、50年後には,皆死んでいるのである。偽善以外の何ものでもない。
今、最も大切なことは,この様な若い人たちが少しでも希望を持てる制度などを作ることである。しかし,なかなか困難である。まずは政治家や官僚の無駄を削減し、公と民が、もっと平等になる仕組み(システム)を構築することが急務である。そして、この様な日本の現状や最近の歴史に関しても若者は全く興味が無いのである。
今後、教育において大切なことは、日本の江戸時代末期から現代(昭和史)の歴史をまず最初に教えることだと思う。歴史教育は重要なのに,日本の学校では相変わらず、大昔の「縄文時代」等から授業を始める。生徒も此の様な授業を受けていては面白い訳がない。しかも暗記ばかりである。大半の生徒が歴史を嫌いになるのは当然であろう。少し遅いが今こそ、歴史教育を見直すべきであると痛感する。ジャズも歴史があるのです。鬼編集長は昔から?弟子や生徒さんにジャズを理解する一助になればと、伝説的、歴史的ミュージシァンのビデオを提供されてました。最近は輪を広げ、ファンの皆さんにもジャズへの理解を深め、より楽しんで貰うべく、ビデオのDVD化に精力的に取り組んでられてます。チック・ウェッブ(写真右)のドラミングなんて初めて見せて貰い痺れたものです。おっと、バーボンを零す処でした。
82 回   エロールあさかわ
 再六十年程前に西ドイツで発足した「こうの鳥の揺り籠」を模して、日本にも「赤ちゃんポスト」が出現した。その第一号は熊本の慈恵病院の敷地内、人目に付かない場所にある。敬虔なクリスチャンである院長先生の発案で幼い命を一人でも多く助けることを目的としている。だが、常識やモラル、正常な感覚が欠落した現代日本社会で成り立つとは考えにくい。「こうの鳥の揺り籠」は親の経済的困窮や健康上の理由で子育てが困難である場合、一時的に赤ん坊を預かって保育するシステムである。ただし、赤ん坊を預けた親たちが経済的に安定した時点、あるいは子育てが可能となった場合は何時でも引き取ることが出来るのである。その為には、親たちの名前、住所、職業なども明記しなければならない。つまり、一時的に預かって貰う相談窓口のようなシステムである。だが、「赤ちゃんポスト」の場合は住所、氏名を記載する必要はなく、赤ん坊を置いていく親たちの良識に任せると云うことである。常識やモラルが欠如している現代日本社会では単なる「赤ちゃんゴミ箱」としての利用者が現れるであろう。快楽本意の性行為に溺れた揚げ句、女性が妊娠した途端に逃げ出す男も多い。中絶するにも日が経ち過ぎて、仕方なく出産することもある。余程、母性本能の強い女性であれば自力で育てようとするかも知れないが、若い女性では先ず無理である。コインロッカーに捨てるか、ビニール袋に詰めてゴミ集積所に捨てるかである。若い女性というより女高生や女子中学生の子捨て、子殺しが頻発している今日である。「赤ちゃんポスト」が設置された初日には三才になる男の子が放り込まれていたらしいが、これは育児放棄、子捨て以外の何ものでもない。今後とも「赤ちゃんゴミ箱」「子捨て箱」として利用される可能性の高さを考えると、設置する前にあらゆる場合を想定し、如何なる場合にも対応出来るシステムを作っておくべきである。ワーキング・プアや格差社会の進行に正比例して子殺しや子捨ての数は上昇して行く。「赤ちゃんポスト」を真剣に維持していくつもりならば政府レベルで考えなければならない。慈恵病院の院長先生の発案、設置は現状を見かねてのことと思われるが、そうなる前に政治屋達がもっと真剣に考えるべき問題ある。「赤ちゃんポスト」の設置はある意味では現代日本へり警鐘である。血税の垂れ流しと搾取にうつつを抜かす目覚ましになることを祈る。
ルパンの私書箱〜from 田舎親父 (43)
   今、外では暖かい暴風が全てを席巻し、強い雨が地表を蹂躙し続けている。雨もまた暖かい。春の嵐、春一番、どちらをとっても幾分かはロマンティックな響きがある。歴史的には悲惨な過去を持つ、春一番という言葉にさへそれを忘れさせる様な響きがある。だが、今見る嵐は春という言葉を忘れさせる。此方の春の訪れは何時もこうだ。私は春の女神というと、いつも松明を持つ手を突き上げ、バスティーユを目指して突き進むパン屋のオカミを思い浮かべてしまう。ニューヨークに立ってコーンクリームの様な物を掲げ、もう一方の手で受け皿風な物を持っている女神のモデルと言われると云われる、彼女製を想い浮かべる。激しく荒々しく、殆ど暴力的、革命的と言いたい程なのだ。そしてそれは、近年、その激しさと荒々しさの度をましつつある。殊に今年のは春の嵐というよりは、ハリケーン・カトリーナの末妹が二度もやって来た様なものであった。私は気弱な性であるから常々、女権の猛威には完全降伏、萎縮してしまっているのだが、こうなってくると、春の女神までもがアメリカナイズされてしまったであろうかと思ってみたり、それとも只の温暖化現象の一つに過ぎぬのであろうかなどと思案にくれるばかりである。今も外では暴風に吹き煽られた激しい雨が白い水飛沫となって家の屋根や壁に襲いかかり、地表を打ち続けている。時折轟く雷鳴は家を揺るがせ、稲妻は家の中にまで切り込んで来て、薄暗い中でこれを書いている私の目を眩ます。白い水飛沫となって飛び散る雨を眺めていると風が渦を巻いて吹き荒れているのが良く分かる。私は蝦蟇蛙の置物のような具合に落ち着き払っていようと思うのだが、吹き千切られた水飛沫の中を飛んでいく草花の葉やに木の葉に混じって、私の家の破片の様なものが隣の家の方向へ飛び去るのが目に入って、中々そうはいかない。犬や猫たちも余り動かずじっとしてはいるが、どれも不安気で耳や尾をピクピク動かせて落ち着かない。私の落ちつかなさには、嵐の他に、もう一つ訳がある。煙草の残りが少ないのだ。煙草の煙で燻製になるよりマシかと考えたり、否、燻製は保存が利くぞなどと自らを励ましてみたりもしてみるが、この嵐の中わざわざ車を出す気にもなれず、誰かに「遊びに来いよ」と電話して「ついでに煙草を一箱買って来て」といって見るかとという悪知恵まで浮かんでくる。だが、私はそれを直ちに実行に移せるほど邪悪な人間ではない。すると又別の考えが浮かぶ。「冷蔵庫か戸棚の中に煙草を買いに行く者の餌になりそうな物が何かなかったかな?スモークチーズはどうだ?ウィスキーの類 は?アルコール類は駄目だ。なら、チーズケーキはどうだ?半分か一欠片くらい残ってやしないか?」。あゝ、人が来る度に、私はチーズケーキに目がなくてね〜と強く訴えておくべきだな。最近は禁煙する者が多くて困る。私が喫煙することさへ忘れてしまったり、最初から知らない様なものが家に出入りするようになってきた。これからは、その点についても行き届くような会話を心掛けねばならんな!以前は煙草に不自由はしなかった。1カートン、2カートンと種類も色々で棚の上に重なっていたものだ。私がヘビースモーカーだと知っても、私を避けはしなかったな。それが、いつの間にか棚の上から消え、今では此の様に買いに行く始末だ。一体、私が彼等に何をしたというんだ。