2007.6
   平成19年6月号
2007#20/6〜226 since1988
http://www.ack-ack.join-us.jp
t.nishikawa@ack-ack.join-us.jp
ack-ack'News 編集室パソコン千夜一夜物語−3!
 Video Gateのドライバーもどうやら入手。電源を入れるとPCに電圧不足の症状も出ない・・・明日は解らぬ?ゆえ、ビデオへの出力テストはひとまず置き、当誌編集と並行して取り掛かった・・・多忙な時に面倒なことを?秘蔵ビデオ・・・いえ、決して怪しげなものでは?のDVD化。それが出来るのもパワーアップした2ndPCがあってこそ!こうして、当誌編集中も当機の隣でひたすらエンコード作業中なのです!4台のビデオデッキもすっかり冬眠から目覚め、フル稼働(何せ30年前のテープもあり、スムーズにランするのを確認する迄が大変。三台で早送り、巻き戻し、トラッキング調整と、ヘッドになじませる作業に大車輪!ヘッドクリーニングもマメに・・・ここらで手抜きすると、後々何倍もの時間が?)しており、演奏、ミュージカル、映画など800本(タイトル数ではなく、90%がベータ)に及ぶコレクションから鋭意セレクトして、既に30本程完了・・・先は遠〜い?最初は可能な限り高画質でと、10本ほど難儀して取り込んだのはよいが、一本が14Gなんてなった揚げ句、トリム、VOBファイル化迄に必要なデスク容量が一本で14×3=42Gなんて漫画的状態に?300GのHDを繋いでるから空き容量はともかく、連続処理等とてもとても?まとめて10本程取り込み、片っ端からDVD化を試みたら、過程ファイルを全て削除してデフラグを掛けても、デスク容量が足りません?とトンチンカンな警告が?無視して強行すると、如何にも仕事してる風にメーターも触れて終了との表示が?But何処を捜してもMpg2ファイルはない。フォルダを指定して効率良くと思っても全く違う場所にファイルを作ったり、先に取り込んだフォルダに上書したり、いい加減な仕事ぶりになるのは、左・アイ・オー・データ製、右下・バッファロー製、とも殆ど変わらず?・・・ちなみに、前号の2ndPCのカノウプスのPCカードは内付けで今回の大量連続取り込み作戦では電圧の不安もあり未稼働・・・近日中に?最終的にDVD一枚に圧縮する訳だから、最初からそのレベルでチビチビ処理する分には両機とも談合よろしく働くので・・・、又、賢くなりました。ハイ!これに比べれば良く頼まれるDVDコピーはビデオCD化の過程を含めても楽なもの!コピーガード外しもテープの方が・・・いえ、あくまで私的使用の話?皆さんから頼まれるビデオは殆ど個人懐古的記録なのでノープロブレム?写真の修整やアルバムのCD化も良く頼まれます。最近も30冊程まとめて・・・。10冊以上のアルバムがCD一枚にと、便利と言えば便利、すっきりすると言えば確かに・・・?しかし、此方はPCに任せっぱなしとは参りません。ひたすら手作業にて、スピードアップを計る位が唯一の楽しみ・・・何か喜びを見つけないと?。厄介なことに持ち込まれるアルバムの殆どがスキャナーのA4版より若干大判?場合によっては、1ページ取り込むのに上下左右と4回も位置合わせを?写真が傾いてようものなら、もう無限地獄?昔の写真によく見られる、4p角程度から1ページ大まで、白黒&カラーと取り込むdpiも調節。可能なものはトリミング!理想を申せば、出来るだけ小振りのアルバム、写真はページのセンターに揃え、四方の余白は多目に、傾き無しで貼る。そんなこと期待せず、スキャーナーを床に下ろし、周りの空間を確保!何回でもスムーズな位置合わせが出来る様にすれば・・・、おあとがよろしいようで・・・ハイ!

偉人伝説 大和ジャズ・ギタリスト シリーズ第2回
日本ジャズ。ギター界の第一人者 沢田駿吾

ルーツ音楽院で何気なく当誌をパラパラ・・・と、院長と親交の深かった前田憲男氏の文による当特集が。院長の活動とジャズ界貢献の記録、演奏の分析など興味深く読みましたが、氏の上京から院長との交わりを通しての時代背景を織り交ぜた懐古部分?が格別に楽しく、氏の7年後に上京。九州でソノシートによる「エアジン」を聴きまくった、院長のバンドにトコちゃん(日野元彦)の後釜で参加が叶った時の想い出などが錯綜して真に懐かしく拝読。コピーして貰い、帰宅後、何度も読み返しちゃいましたので、ご紹介まで!
Jazz guitar book vol.13 SHINKO MUSIC MOOK
少しずつ、闘う相手が見えてきた
朝日新聞全国版に4月24日〜29日の6回に渡り掲載されました!

 糖尿病 チームでA 
 東京都墨田区に住む吉田芳彦さん(47)は昨年三月、糖尿病専門の船間内科(東京都江東区)を受診した。半年ほど前から喉の渇きを自覚していた。だが、それほど深刻に受け止めていなかった。
 初診の日。吉田さんは食生活や生活習慣を書き込む問診票を渡されると、尿、採血、超音波:・と促されるまま、検査を受けた。
 診察室で出迎えた院長の船山秀昭医師(60)は告げた。
 「空腹時の血糖値が264_グラム。正常の上限は110`グラムです。ヘモグロビンAICも12%。正常の倍以上です」。糖尿病だった。
「ヘモグロビンAIC?」 船山さんは続けた。
「ブドウ糖は体を動かすエネルギーの源で、血液中のブドウ糖濃度を示す血糖値は、食後に上がり、運動すれば下がる。一日の間でも変化します。これに対し、ヘモグロビンÅ1Cは最近一、二カ月の血糖を反映するんですよ」。
だが、高血糖そのものは自覚しつらく、病気が進んで網膜症や腎症など合併症が起こって初めて気づく人も多い。吉田さんも、喉の渇き等の他は、特に痛くも痒くもなく、ピンと来なかった。
そこで船山さんは「数値に30を足し、体温だと思って下さい」と付け加えた
ヘモグロビンAICの正常値の上限は5・8。30を足すと35・8度で、平熱だ。「おれは12だから、30足すと…42度。ひどい高熱じゃないか!おれの体はボロボロっていうことか
 糖尿病は、膵臓で作られるインスリンの働きが十分でない為に起きる。患者の95%を占める2型の場合、治療の中心は、食事療法と運動療法だ。必要に応じ、糖の吸収を緩やかにしたりインスリンの働きを助けたりする飲み薬やインスリンの注射を使う。
 吉田さんは体重が110`を超えていた。肥満はインスリンを働きにくくするので、まず、体重を適正に戻すことが治療の土台だった。膵臓の機能は問題なく、尿や血管にも異常はなかった。血糖を下げる薬を飲みながら運動と食事を工夫することになった。
「今の体重を5〜10%減らせれば、インスリンの働きを取り戻せる筈です」 船山さんは、治療方針を順を追って説明した。
 吉田さんには、少しずつ、これから闘う相手、糖尿病が見えてきた
読者のホ−ム・ページ (118)    よっぱライフプランナー
 
国際派としてラグビーの競技普及に尽力した金野滋(こんのしげる)日本ラグビー協会名誉相談役が4月1日亡くなった。84歳。同志社大でFWとして活躍。同大卒後は巧みな英語力でオックスフォード大など来日チームとの橋渡し役を担った。68年のアジアラグビー協会設立に尽力し、事務局長。英国遠征やW杯等では団長として日本代表を率い、95年から01年まで日本協会会長。「シギー」の愛称で呼ばれ、国際ラグビーボード常任理事も務めた。85年に大英勲章を受章。又、同志社大の名誉教授で元日本代表監督の岡仁詞(おかひとし)氏が5月11日に亡くなった。77歳。59年に同大ラグビー部監督に就任、第1回日本選手権優勝、平尾誠二氏らを擁して大学選手権3連覇など数々の快挙を成し遂げた。72,75,85,86年には日本代表監督を務め、同大のニュージーランド遠征や日本代表遠征など何度も金野団長、岡監督体制で世界に挑んだ。英国のラグビー発祥の地には競技の発展に貢献した人物名が刻まれており、唯一の日本人として金野氏の名前がある。日本ラグビー発展に貢献したお二人が亡くなった今年、W杯イヤーである。世界最高峰の戦いに挑むのはカーワン・ジャパンである。2個の白星。それが今秋9月7日に開幕するフランスW杯での日本代表の目標である。ラグビーのW杯は03年まで5大会が行われ、過去5回に日本は全て出場。ただし、日本が挙げた勝利は91年大会のジンバブエ戦のみ。今大会の一次リーグで日本が対戦するのは、豪州、ウェールズ、フィジー、カナダと、日本より格上の国ばかりの厳しいグループで2勝!不可能とも思える目標を託されたのは、ジョン・カーワン・ヘッドコーチ。97〜99年、NECでプレーするなど日本ラグビーに精通する一方、第1回W杯でトライ王をとり、母国ニュージーランドでは神の様な存在である。カーワン氏が初めて陣頭指揮を執った4月のアジア3ケ国対抗で日本は韓国、香港に、82-0、73-3と圧勝。幸先いいスタートを切ったが、先日行われたW杯の前哨戦ともいえるフィジー戦では一軍半の相手に逆転負け。日本代表の弱点をさらけ出す事となってしまった。「世界一の速さ、世界一の低さで日本人にしか出来ないラグビーを追及していく」というカーワン氏の基本方針が浸透するにはもう少し時間が掛かりそうだ。金野氏、岡氏という日本ラグビーの巨頭を失った今年、カーワン・ジャパンに新たな日本ラグビーの幕開けとなる様な戦いを期待したい。カーワン・ジャパンの2勝を祈願してバーボンのグラスを傾けますか。戦いに向かう男達の気分になるには、新作も好評な「ロッキー」のテーマ。ファーガソンのハイノート・トランペットに限りますな。んっ?フランスW杯だから、シャンパン?残念ながら、我が家にシャンパンはございません!
81 回   エロールあさかわ
 再婚した女性が子供を生んでも再婚後三百日未満で生まれた場合は前夫の子供と見なされる。明治憲法がそのまま適用されると、此の様な不思議な結果になる。離婚のパターンにも色々あるが、他人同志になる前に最後のイトナミをと云う場合もあるだろう。離婚が決まった途端に、いつになく激しく求め合う場合もあるだろう。そのイトナミの結果、妊娠する女性も確かに居る。それを戒める意味の法律であろうが、現代では全く意味をなさない。せっかく子宝に恵まれた再婚夫婦にとっては大変に迷惑な話であろうが、一番迷惑を蒙るのは前夫である。最後のイトナミで妊娠する場合も確かにあるが、別れた前夫は、その子供を引き取ったり、認知したりする意志がないことが殆どである。自分と別れて再婚した前妻が子供を生んだからといって認知しろなどと言われてもネェ。又、別れた女房が再婚相手と出会う前に複数の男性とイトナンでいた場合も多いのだ。再婚相手が見つかり、式を挙げる日が決まると、前日まで別の男性と激しくイトナンだという話もある。再婚相手と式を挙げる数ヶ月前からイトナミが始まる場合もあり、再婚して二ヶ月目に出産するというケースもある。つまり「出来ちゃった婚」であるが、現代は此のパターンが主流になりつつさえある。その度に前夫の子供と見なされてはたまらない。離婚する夫婦を調べてみると、お互いには既に別の相手が出来ており、その為に離婚もスムーズに成立したというケースも多い。離婚した女性が性の自由を謳歌した結果、妊娠したものの、果たして誰の子供か解らず、本命とする男性の子供にしてしまうケーすらあるので、これからは出産する度にDNA検査は不可欠となる。今後は生まれてきた子供の名札代わりに血液検査、DNA検査票等を足首に付けることが法的に決められる様になるかも知れない。刻々と変化する現代社会の中で人間の価値感にも著しい変化が見られる。古き佳き時代に愛着を覚える者にとって、明治憲法の中にも存続させたい条例も多々あるが、出産三百日論は改正すべきである。現代社会の中で形骸化したモラルや常識にスポットを当てて欲しいものである。頭が良いだけでモラルや常識が欠落した官僚や政治家の増加が、莫大な血税の垂れ流し、莫大な搾取を平然と行っている。豪華な議員マンションを建てるなら庶民の為に家賃の安い県営住宅や都営住宅も増築を考える。べきである
ルパンの私書箱〜from 田舎親父 (42)
   拝啓 ルパン殿。私事にかまけて過ごす内に先の便りから三月も経とうとしている。今、気がつき慌てている。長い無沙汰を申し訳なく思っている。いつも、ack-ack'News 有り難う。貴兄直筆の添え書きと犬の写真、嬉しかった。更に貴兄の佐賀での記事と写真を眺めて感慨を深くしている。先ず、皆の顔が良い。個々人については、貴兄以外は誰一人として存ぜぬが、それでも全員の笑顔が良い。貴殿の言葉を借りると°これ迄の短くもない人生″の内には、誰しも笑ってばかりも居られない、どころか、それ以上の辛い事柄も経て来たに違いないと思うのだが、その後の、それぞれの笑顔が良い。誰もが°On the sunny side of the street″をkeepして来た者らに特有の笑顔で写っている。良い笑顔だ。ともあれ、田舎の片隅からではあるが、表通りを堂々と歩いてきた貴兄と、その同輩達に声援を送りたい。そして、又、いつの日か折あらば、今回以上の笑顔を見せて貰いたいと願っている。赤ん坊や幼児の笑顔は可愛いものだ。そして若者の笑顔も・・・。しかし、年を経た者達の笑顔は更に良い。昔、ミッチー・ゲイナー主演の「南太平洋」という映画があった。その原作者は、ある時「人はただゴハンを食べて眠ると云うだけの暮らしをしても、70歳まで生きると云うことが出来れば、その人の人生は成功であったと私は思う。」と言ったそうだ。傍目には順風満帆とまでは行かなくても、平穏無事、平々凡々に見えても人それぞれの人生には、その陰に堪え忍ばねばならぬ、乗り越えて行かなくてはならぬ艱難辛苦があることを知る者の言うことだろう。もう暫く経つと、写真の皆さんも、それぞれの人生を振り返り、「私の人生も此処まで来れば成功だった。」と言える日が訪れる。その時、再び皆が集い、深い人生の笑顔を見せてくれるであろう事を願っている。出来得るものならば、その時には私も草木の茂る、この田舎の片隅から這い出て、貴兄の打ち出すドラムの音に聴き入ってみたいと思う。私のリクエスト曲は °On the sunny side of the street″古い等とは言わないでくれ。貴兄なら、どうにでもモダンにアレンジ出来る筈だ。私は昔の或る時期、この曲をルイ・アームストロングで聴いていた。サッチモのトランベットもダミ声も温かく優しかった。私をダウン・コートの様に包んでくれたが、もう一つ忘れられないものがある。サッチモの唄とトランペットの背後から、時折、漏れて来たクラリネットの音色である。真冬の厚い雲間から時折差し込む日差しの様にキラキラ輝きながら降ってきて、私の冷え切った脳髄に染み渡った。ふとした時に、その音色が能の片隅に煌めくのを感じるが、その演奏者の名前は現在も知らない。私は音感が未発達なので単純なコードやリズムの音楽にしか反応できないのだけれども、それでも、音楽は良いものだ。私には終生、神秘の不思議な国のものなのかも知れない。今回は、のっけから田舎の親父らしからぬ便りになってしまったが、それは貴兄の添え書きと記事、そして写真のせいであろう。それらで、私の中で死にかけていた部分の幾らかが蘇ったのかも知れない。私も嘗ては普通の少年であったのだ。そして、今やっと、ただの人になり掛かっている。