2006.2
ack-ack’通信
2月22日 ゲソの気まぐれコンサート・メモリアル ’06!  ペリーコモやシナトラを超えて叶うことなら81歳にコンサートを!と言っていた笈田さん。存命ならまもなくその日が参ります。昨年のVTRコンサートで終わろうと思っていたのですが多くの方からリクエストを頂き、81歳の誕生日の翌日に再度、ゲソのコンサートメモリアルを開催させて頂きます。ゲソの気まぐれコンサート77th&78th、ゲソとオッパチこだわりコンサート’98&’00から思い出深いシーンや笈田さんが81歳!といっていた検証シーンなど編集してみたいと思っています。亡くなった人の歳は数えないと言われますが何かのJAZZコンサートがあるといつもの人懐っこい笑顔で「よぅ!」と楽屋に入ってくる気がいまだにしているミュージシャンが多いそうです。81歳とは思えない若々しい?ステージをご覧頂ければと存じます。   ご案内より転載~
*当日はクール・トレイン出演日なのですが、何としても81歳になったボスに会いに伺います。
1月13日 本田竹広君ご逝去  彼との共演は武田コルトレーン4での5回程度なのですが、四谷にあったジャズ喫茶(サテンドール?)で、バンマスのオタケ(小生宅に泊まったりしており、そう呼んでた。)が、アップライト・ピアノの譜面代にポンと大きな五線紙を一枚、置いたので覗くと、大きな字で12小節のコード進行が裏表に書いてあり、「何、これっ?」、「渋やん(渋 谷 毅氏)のトラを頼んだ若い奴、ピアノは上手いんだけどブルース分かんねえんだょ~。」。現れたのが国立音大在学中の彼でした。いえいえ、キラキラと輝く素晴らしいプレイでブルースも何ら不都合ははありませんでしたよ。それより、深く心に残ったのは次回から小生が車から楽器を降ろす場所に待っていて運ぶのを手伝ってくれたことです。人生後にも先にも彼だけ・・・その礼節を重んじる姿勢は3年程前「赤いからす周年記念パーティー」で何十年ぶり?かの再会でも何ら変わらず、直立不動で挨拶(小生を知らない若手ミュージシャンが「あの人、誰?」と聞きあってる中・・・。)から始まり、皆の処に行きなよと何度言っても、ラムを片手に小生の横にじっと座っていて、3杯目あたりで突然「一寸、ナオンちゃんの所に行って来て良いですか?」「だから、さっきから云ってるでしょ!」、「ハイ、ではまた後ほど」、最高に楽しい会話ができました。帰りしな大勢の若手に囲まれている彼の背を叩き「お先に失礼しますよ。」と小さく声を掛けた途端、振り返るや、直立不動・・・、凄い奴でした。心よりご冥福をお祈り
し合掌!
2月25日(土) クール・ジャズ・パーティー vol.1 大勢の皆様の「クールでオン・ステージしたい」とのお声にお応えしましての第一回。オン・ステージなさらぬ方々に楽しんで頂くことを主眼とし、敢えてジャム・セッションではなくジャズ・パーティーと銘打ちました。踊る○○に見る○○。どう○○なら・・ではなく、完成されたOPUSを皆さんで楽しむ会になればと願ってま~す。
読者のホ-ム・ページ (102)   よっぱライフプランナー
    「新年あけましておめでとうございます」よく年賀状で目にするこの言葉、実は間違った日本語なのだそうである。「新年」と「あけまして」は同じことを言っているから、「新年」は不要らしい。先日、ある賀詞交歓会に出席した際、有名な国会議員の方や大企業の社長さんが、壇上で「新年あけましておめでとうございます」と挨拶しておられるのを聞き、思わず苦笑してしまったものです。日常どこでも聞くことのできる間違った日本語はたくさんあります。例えば、「申し訳ございません」は間違いであり、「申し訳ない」がひとつの単語なので「申し訳ない」か「申し訳ないことでございます」が正しいらしい。他にも、「とんでもございません」(正しくは「とんでもないことでございます」)、「こちら、ハンバーガーになります」(「こちらハンバーガーです」)、お会計は315円になります」(「お会計は315円です」)、(お釣りが無い場合)「ちょうどお預かりします」(「ちょうどいただきます」)、「何か飲まれますか」(「何かお飲みになりますか」)、「何か食べられますか」(「何かお召し上がりになりますか」)、「どちらか行かれたんですか」(「どちらかいらっしゃったのですか」)、「おあいそしてください」(「お会計してください」)等々。ん?昨夜あるスナックで散々飲んで歌った筆者、ママさんに「おあいそ!」と叫んでしまった。この言葉は元来お客様が使うものではなかったようである。本来はお客様がお帰りになる際に、その店の主人が「本日は御愛想もありませんで、申し訳ないことでございます」と、文字通りお客様への御愛想だったそうです。最近、間違った日本語を指摘することが流行って?いるのか、「問題な日本語」なる本が売れたり、「タモリのジャポニカロゴス」というTV番組が話題になったりしている。確かに若者に限らず、最近の日本人は間違った日本語・敬語を平気で使うようになっているようだ。教育が間違っていたり、TVや漫画の影響もあるかも知れない。確かに日本語は難しい。最近は筆者も気を付けているつもりではあるが、うっかり間違った言葉遣いをしてしまうものである。その点、編集長は言葉ではなく音で会話なさるので心配ない?ですよね。ところで編集長、いつも入稿が遅くなり申し訳ございません。ン?早速間違ってますな!いけないイケナイ。そういえば、昔、ボビー・ティモンズ作曲のファンキー&ソウルフルな“Dat Dere”、“Dis Here”の2曲が大好きで、彼のトリオは言うに及ばす、キャノンボールやジャズ・メッセンジャーズの演奏にも痺れまくったものですが、“That Dere”、“This Here”の黒人風な訛りを表記化したものと知ったのは大分後のことでしたねぇ~。正しい(正統派)バーボンに訛ったJAZZ・・・?。そんなことはないか?             
68回   エロールあさかわ
 「金銭至上主義」の典型あるいは終局的な姿がホリエモンであり、彼を中傷するにはあたらない。政治家も経団連もマスコミ界も、散々、彼を持ち上げてきたが、その反面では凄まじい嫉妬が渦巻いていた。今回のホリエモン叩きの徹底は正にその裏面を晒している。 「金銭至上主義」と「拝金主義」とは少々意味を異にすることは周知のことと思うが 「金銭至上主義」を基盤として発展する現代日本人社会は今後、増々ニートを増加させ、額に汗してコツコツと働く者を軽蔑する傾向を示している。当然、ホリエモン自身にも其の様な考えがあった。「金は万能であり、金さえあれば不可能無し。金のないのは首無しに等しい。」「金を掴んだ者は神である。」とまで豪語したホリエモンの姿を斜めから見ると「豚もおだてりゃ木に登る。」の姿にも見える。学生時代のオタクは女性にもてたことがなかったと云うことだが、金の力で自分好みの女性も手に入れることが出来た。更に高級車に乗り、家賃二百二十万円の豪華マンションに住み、自家用ジェット機まで手に入れることが出来た。これも金をつかんだ者の典型的なパターンである。私は以前にも書いた記憶があるが、金を掴んだ者の殆どがこの道を辿ってしまう。つまり日本の金持ちというのは殆どがこの程度の者である。自分が手にした大金を社会に還元したり、自然保護と修復の為に使うと云うまでには到らないのが日本の金持ちで、全て自分の快適快楽のため、私利私欲を満喫するために費やす。ところが真の企業家として大金を得た人間には、社会や自然に還元しようとする力と思いが生まれるものである。人々の協力があって大金を掴むことが出来たのだという思いがあり、還元することで更に大金を掴むチャンスが生まれることを体験を通して感知している。「何をしてでも金を掴む」というホリエモンの生き方がこの侭まかり通るとすれば、僅かな収入を得る為にコツコツと努力を続ける者は居なくなってしまうだろう。その意味では今回のホリエモンの逮捕は意味があった。それにしても、今回の騒動で東証の微弱さが露見してしまい、世界の中傷を浴びることになったが、政治改革、構造改革と共に、金融システムの改革や「金銭至上主義」の思想改革の必要性を痛感させられた思いである。元来の日本民族は勤勉努力をモットーとして成り立っていた時代が永く、個々でもう一度、原点を見つめ直す時機の到来を感じる。
 
 「ジャズ・タイトルの名訳」  #59 (2001/2~) 新 折人 #59
   ジャズの新曲が日本に入って来る時、原語をそのまま片仮名にするか日本語訳のタイトルを付ける。これがなかなか難作業のように思われる。直訳ではサマにならないことが多いので、歌詞の内容を暗示しつつ、曲の感じを出して巧みに命名する必要がある。タイトル次第では売れ行きにも影響を与えかねない。世の中では三大なんとかと良く言う。独断と偏見かもしれぬが、日本にジャズが入ってきてからの名訳だと私が考えるタイトル訳を三つあげてみたい。  第一は「月光値千金」。"Get Out And Get Under The Moon"(1928)の訳である。二村定一(1900~1948)と共に、日本のジャズ・ヴォーカルの第一号と言われた、浅草オペラ出身の天野喜久代(1896~1945)がいちはやく取り上げて流行らせ、「エノケン」こと榎本健一(1904~1970)はこれを替え歌にして歌った。この曲名には「月下に出でよ」とか「月夜の晩に」といった邦訳もあるが、タイトルとして「月光値千金」の方がはるかに詩的であり、稀に見る名訳だと思う。訳したのは、浅草オペラの発展にも貢献した音楽評論家、演出家、劇作家、訳詞家の伊庭 孝[いば・たかし](1887〜1937)である。中国南宋の詩人、蘇軾(1036〜1101)の「春夜」と題する七言絶句の冒頭に、「春宵一刻價千金 花有清香月有陰 ・・・」とあるが、それにヒントを得たのであろう。   第二は「絶対絶命」。"Stormy Weather"(1933)など多くの名曲を書いたハロルド・アーレン(1903~1986)作曲になる、いかにもジャージーな "Between The Devil And Deep Blue Sea"(1931)の訳である。歌詞を読むと、「あなたに悪魔と深海のはざまに追い込まれる」(You've got me in between the devil and the deep blue sea.)のだから、「絶体絶命」は言いえて妙だ。      第三は、"Stairway To The Stars"(1939)を訳した「星へのきざはし」。この曲はもともと"Park Avenue Fantasy"というタイトルで作曲され、ポール・ホワイトマン楽団がインストで演奏していた。作曲の4年後に、"Star Dust"(1927)などの作詞で有名な「星」大好き人間のミッシェル・パリッシュ(1900~1993)がこれに詩をつけて改題した。「二人で築いた星への愛の階段を登っていこう」(Climb that stairway to the stars with love beside us・・)と歌っている。邦訳で使っている「きざはし」は「階」と書き、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり・・」の書き出しで有名な「平家物語」(13世紀中頃)の中に、「御前の階を半(なから)ばかり降りさせ給へるところに・・」などと出てくる言葉で、要は「階段」のことである。直訳といえば直訳だが、ジャズのタイトルに、あえてこの古語を使ったところがまことに憎い。          ところで、昔英語の歌詞を日本語に訳して歌っていた時代には、訳詞者がタイトルを付けたのだから、上記の「月光値千金」のようにタイトル訳の作者がはっきりしている。ところが、その後多くの場合、レコード会社の洋楽ディレクターなどがタイトルのみを付けて売り出すためか、「絶対絶命」や「星へのきざはし」の訳者は、私の知る限り分からない。名訳や迷訳、珍訳や誤訳もあるが、曲のタイトルを付けるのも後々残る立派な仕事なのだから、是非 CDジャケットでタイトル訳者の名をクレディットして欲しいものだと思う。
 
                                新 折人 Rose Room~映画音楽第四弾!
          2月18日(土) My Scotch 03-3402-6649 当紙広告参照
                    西村俊哉(g)  外谷 東(p) 篠 宏昌(b)
ルパンの私書箱~from 田舎親父 (27)
   しかし、それも又、私が50.000サイクル以上の超音波感覚を備えることがあれば、植物たちの叫びや、歌声、語らい、呟きですら聞き取ることが出来るかも知れないなどと、このガーデナーの卵は思うのである。土いじり、種子いじり、苗いじりを、一日5~6時間、半年以上も一人でやっていると、少しばかり考えることが可笑しくなってくるようだ。植物は種子の内から美しいなどと思い始めている。二葉は勿論、本葉の二、三枚の時期も、蕾さへ見えぬ頃も、勿論、満開の花の時期も、そして盛りを過ぎ、萎れ、枯れ、死に至る時さへも、それぞれの瞬間にそれぞれの美しさを見せるなどとも思う。そして、それは、多分生きて居り、生命の云々・・・と思い始めて、ぎょっとする。大袈裟ではないか!膨張というものだ。飛躍だ、脱線であるぞ。破裂するぜ・・・私はボンヤリと我に返る。目の前にはポピー・ピエロの芽が何処からか伝わってくる微かな振動に、その神経そのものといった極細の茎を奮わせている。近所の人々は、私がとうとう呆化始めたのではないかと噂しているらしい。彼ら(といっても殆どが主婦という妙な階層の女達なのだが)の判断、推察は一部納得のいくものだ。二十年近くもの間、完全なる藪と化し、バクテリアからミミズ、モグラ、ヘビ、カエルに到る生物、あらゆる昆虫共の棲家となった庭の中で、狸のようにひっそり、もっそりと、淋しく滑稽な暮らしを送っていた男が、ある真夏の灼けつくような日に鎌や鍬を振るい出し、庭中を掘り返し、ブロックや煉瓦を積み、花壇らしきものを作り、鉢に華を突っ込んで種をまき、苗を植え始める。これらに異常や異変を感じなければ、近隣の人としてあまりにも鈍感、不人情と云うものではないか・・・。彼女らは私が鼻の頭から汗をしたたらせ、乾いた土の上に染みを作りながら土作りに励む姿を遠くから眺めている。格好の井戸端会議の材料である。私には彼女らの会話が聞こえるようだ。「ほら、腰を伸ばしたワヨ。ア~ァ、この暑いのに、あんなことしなくたって、他にすることいっぱいあるでしょうに。」、「ないのよ、ありゃ~誰があんな馬鹿気たことすんのよ。仕事も友達も、ちゃんとした趣味もないんじゃないの。」私は強  烈な日差しはものともしないが、女房  共の熱い、否、冷え冷えとした視線は  些か機になる。糞女房共の視線や舌先  で弄ばれるのは癪である。私はゆっく  りと立ち上がり、充分に力を溜め込ん  でから、エネルギーの迸るような腕振  り、回転を行って見せる。女共との距離約35m。充分な射程である。どうだ、腕から飛び散る汗を見たか!髪の先端から発射され灼熱の陽光に輝いて宙を走り、大気に消滅した俺の汗を見たか!お前さんらの亭主とは違うぜ。オイラ、糖尿病、関係なし、肝臓、アラスカ産ヘラ鹿のそれのようにタフ、神経痛、関節痛なし、生活習慣病?私には別世界のことですワ。私の生活には習慣というものが、そもそも存在せぬが故です。健康を人の姿にすると、それが私・・・。私は全身全霊を打ち込んでアピールしてみる。それから、震える指で煙草を取り出し一服つけてみる。   以下次号