2005.8
7月24日(日) ジャズクルージング イン 静岡!    正午、次回開催地・足利より参加の原 正夫、原田豊史氏らと隣の中華料理店で早くも一杯(何杯?)。気分も乗った処でと思いきやバスは来ず。問い合せに「深夜の一時だったのでは?」とオールオブミーならではのジョークが帰ってきて大受け!にわか仕立てのトラ・バス待ち?宴会はクラブにて始まり、一時間半遅れの大ズッコケスタートとなりました。着後一時間程での開場となり小生は会場直行。着替え、セッティング確認、栗田、金城さんとの打ち合わせもソコソコに開宴。皆さん馴れたものでノーパニック&スムーズに開演。六本木組四十名、静岡組百名程からなる四時間半に及ぶ壮大なジャムセツションは、地元の方の「静岡にこんなにミュージシァンが居たの?」なんて声が聞こえる程の大盛況で見事に終了。毎年やって!一万円は安い!等、嬉れしいお声も沢山頂き、大成功でした。しかし、浮月楼のお料理、小生食したのは蕎麦一杯のみとは!返す返すも残念。居酒屋での打上も予定を大幅に上回る地元の皆さんの参加で座布団がなくなる始末でしたが、譲り合って親睦も深まり楽しかったですね。翌日、清水港近くの「なすび」にて、六本木組打上。生しらす&桜海老と料理も素晴らしく、前夜の欠食児童状態を改善すべく、一杯のご飯を鉄火丼、桜海老かき揚げ丼、卵丼とトッピングチェンジにて満喫?美味しかったぁ〜!流石に皆さん満腹なので散歩がてらショッピングセンターへ。各自、お土産を手に手にバスに戻り、スタンウェイが鎮座する陶器店?「栗田屋」へ伺う。お茶を頂き、優雅にソロピアノを聞きながら?再び買物を楽しんだのち帰路に着きました。栗田君の母上もお元気で何よりです。手を振って見送ってくれた、栗田夫妻の手配の良さはお見事でした。六本木組の皆さんにも大好評でした。皆さん、お疲れ様でした。次回は足利で〜す。
読者のホ−ム・ページ (96) よっぱライフプランナー
 7月26日、コメディアンの岡八朗さんが亡くなった。67歳だった。同世代の花紀京らと吉本新喜劇の黄金時代を築いた立役者である。岡さんは俳優をしていた昭和34年、花菱アチャコさんの推薦で吉本新喜劇の一期生となる。「奥目」を売り物に、独特の風貌と「えげつなー」、「くっさー」、「この構えに隙があったら、どっからでもかかってこんかい!」、ピストルの弾を奥目で受ける、等のギャグで人気者となる。特に、「えげつなー」「くっさー」は関西人には余りに有名。間寛平さんがこの人を見て吉本に入ったというのも頷ける。大阪出身の私は子供の頃、土曜日と日曜日の昼間に繰り広げられる吉本新喜劇の爆笑コントを欠かさず見ていたものであった。庶民の生活を舞台にした、各出演者の定番ギャグがちりばめられたドタバタ劇であるが、最後はホロリとさせて終わるという、今思えばちょっと「クサイ」芝居なのである。岡八朗(当時は八郎)、花紀京、船場太郎、桑原和男、原哲男、チャーリー浜、山田スミ子等、個性溢れる出演者のギャグが蘇ってくる。
岡さんは平成元年、吉本新喜劇の若返り策がとられた際、花紀京と共に退団。テレビ出演や地方公演に活躍の場を移す。私生活では病気や身内の不幸が重なった様である。30歳で結核、平成5年には胃癌、7年に急性膵炎、8年には脳挫傷、42歳の時には妻が自殺、60歳の時には長男が肝硬変のため急死。そういう不幸が重なり、アルコール依存症に。「再起不能か」とまで囁かれたが、芸への執念で断酒に成功。平成14年、芸能生活45周年記念リサイタルで見事に復活した。平成15年には心機一転、芸名を「八郎」から「八朗」に変えるなど、舞台への意欲は衰えていなかったという。
当時絶頂期にあった吉本新喜劇のスター達。その後は大病した人、亡くなった人、多額の借金で消息不明の人と波瀾万丈の人生を送っている様である。今では吉本新喜劇も東京進出を果たし、新宿の「ルミネtheよしもと」で観客の笑いを誘っている。当然の事ながら出演者も大きく変わり、有名な処では辻本茂雄、島木譲二、池乃めだか、なかやまきんに君、山田花子であろうか。チャーリー浜、桑原和男がまだ頑張っているのは嬉しい限りである。今夜は、岡八朗さんのギャグに敬意を表し、明るく楽しいアンドレ・プレビンの I'm Beginning To See The Light でも聴きながら乾杯といきますか。いつもながらのバーボンでは、関西人に似合わない?まあ、いいか。
 62 回   エロールあさかわ
現代社会の中では万引き、窃盗、痴漢、強盗、暴行、殺人、放火などの行為は犯罪ということで禁じられている。ただし社会が平和時であることが条件としてついている。ひとたび戦争や大災害に見舞われ、社会の平和が根底から覆るようなことになれば犯罪などと言ってられなくなる。古代から最近のイラク戦争に到るまで戦場での事件や人間が行ってきた行為は、犯罪などと言う生易しい言葉では表せるものではない。略奪、強奪、強姦、殺人、放火といった犯罪行為が当然の如く発生し、これらの行為が犯罪として取り締まられた例はない。国際法が定められており、犯罪行為があった場合は逮捕監禁の対象となるわけだが、殆どの場合は野放し状態である。つまり戦争や大災害と言ったパニック状態であっても、或いは平和時にあっても人間の心裏には此等の犯罪に走る資質、本質が備わっているものである。平和時にあっては人間が持っているモラル、常識、抑止力が働き、辛うじて犯罪に走らずにいる。ところが社会が平和時にあっても、ひとたび此等の犯罪に走った人間は再犯、再々犯を繰り返し、前科三犯、四犯、中には前科十数犯、二十数犯という犯歴を積み重ねる人間もいる。犯罪を犯しては逮捕されて刑務所に収監され、その都度、罪の重さを説かれ、被害者に対して謝罪の気持ちも生ずるであろうが、刑務所を出た途端に再び同様の犯罪に走る。犯罪は麻薬中毒と同様に一度犯すとその瞬間の興奮と快感から逃げることは困難である。犯罪ではなくとも競輪、競馬、パチンコ、麻雀、ポーカーゲームにハマル人間の心理も犯罪者の心理と共通するものかある。この様に掛け声との様に賭け事に走る行為も人間の資質、本質であり、他人からの忠告や説得で納まるものではない。何度負けても一度味わった瞬時の勝利と快感から逃れられず、財産をなくし、家庭崩壊へと進んでしまった例も数多くある。人間が持って生まれた資質、本質はモラル、社会常識、理性によって何とか抑止してはいても、決して消滅するものではない。ならば犯罪者達の再犯を防ぐ方法はあるのだろうか。人権や尊厳といった人間の作った方によって犯罪者達の権利を守られているが、犯歴を重ね続ける者の人権、尊厳とは一体どの様なものか。人間の資質や本質が改造不可能であるならば、犯罪への抑止力を育む指導を初犯の段階で、未成年者の内に徹底的に行うべきであり、未成年者だからという考えを改めるべきである。
夏とくればハワイアン」 新 折人 #54       (2001/2〜) 
 
「ハワイ」は18〜19世紀には、カメハメハ一世(1736?〜1819)を創始者(1810年に ハワイ全島を統一)とする「カメハメハ(Kamehameha)王朝」の支配下にあった。アメリカは19世紀末に海外進出を積極化し,1893年ハワイ王国を滅亡させ、1894年「ハワイ共和国」とし、1898年これを合衆国に併合し、1959年,合衆国の第50番目の州とした。そうした中で、ハワイ王国最後にして唯一の女王、リリウオカラニ(1838〜1917)は名曲 "Aloha ‘Oe "[アロハ・オエ](1877)の他、驚く程多くのハワイアンを残した。ハワイ生まれのチャールズ・キング(1874〜1950)は、「近代ハワイアン作曲の父」と呼ばれ、1915年に書いた最初の曲 "Na Lei O Hawaii"(島の唄)で成功をおさめ、以来400曲内外を世に出した。その中には1919年の"Kaimana Hila"(カイマナ・ヒラ)、1926年の "Ke Kali Nei Au"(ケ・カリ・ネイ・アウ、後の1958年に英語詩がついてHawaiian Wedding Song)などがある。
1915年前後からは、ハワイアンがアメリカ本土でポピュラーなものになっていく。そしてアメリカ本土製など、ハワイ人以外の作曲者によるハワイアンを数多く生み出すこととなった。例えば、その初期のものに、1915年にアメリカ本土で出来た "On the Beach at Waikiki"(ワイキキの浜辺で)があった。こうしたハワイ以外で出来たハワイアンを、現地の人達は、「半分白人」を意味する「ハパ・ハオレ」(Hapa Haole)と呼ぶ。我々が知っているハワイアンには「ハパ・ハオレ」が意外に多い。1936年の"On a little bamboo bridge"(小さな竹の橋の下で)、"Sweet Leilani"(スイート・レイラニー)や "Blue Hawaii"(ブルー・ハワイ)、1948年の "Beyond the Reef"(珊瑚礁の彼方)など皆「ハパ・ハオレ」だ。"Pearly Shells"(真珠貝の歌)も、もともとは "PuPu A'O'Ewa" というハワイ土着のメロディを使っているが、編曲し 英語詩をつけ有名にしたのはアメリカ本土人である。
日本への「ハワイアン」(Hawaiian)の本格的上陸に貢献したのは、1927(昭和2)年秋頃来日したハワイアン・ギター奏者のアーネスト・カアイ(1881〜1956)であった。カアイにまつわる面白いエピソードがある。アメリカン・ポピュラーやジャズの基本型である「AABA形式」の「B」の部分を、日本では「サビ」というが、それはピリッとくる「ワサビ」のサビから来ているというのが定説になっている。ところが、これには別説がある。それは、カアイが日本で活動を行っていた時、この「B」の部分に譜面で「SAB」(サブ・ドミナント)と指定したのを、バンド・メンバーが「SABI」と誤読し、それで「サビ」というようになった、というのである。いかにも有りそうな説だ。
日本は世界有数のハワイアン愛好国になり、多くの和製ハワイアンを生み出した。ハワイからやって来た日系二世の灰田晴彦[後に有紀彦と改名](1909〜1986)やバッキー白片(1912〜1994)らがその先べんをつけた。私は「赤いレイ」という曲が、大橋節夫(1925生)の15才の時の処女作と知る前は、本物のハワイアンだと思っていた。最近では比嘉栄昇(1968生)らが結成した「ビギン」のヒット曲「涙(なだ)そうそう」が、マウイ島出身のネイティヴで、人気が高いシンガー・ソング・ライターのケアリ・レイチェル(1961生)によりハワイ語でリメイクされ"Ka Nohona Pili Kai"(カ・ノホ ナ・ピリ・カイ)として歌われ、すっかりハワイアンになっている。  今年の夏は猛暑だろう。学生時代を思い出して、久し振りにハワイアンを堪能したいと思っている。
ルパンの私書箱〜from 田舎親父 (21)
  今日のような晴れた日、ここらの径のあちこちでは女達が、子供達から婆さんまで手に手に籠を持ち、せっせと木の実を摘んでいたものだ。籠は裏ヒゴと称するもので編んであった。裏ヒゴとは竹の皮の方ではなく内の方の事である。それは柔らかくて脆く、実用的な籠やザルの材料には不向きである。農作業や家事用のザル、籠などは皮のついた表ヒゴで編む。重いが非常に丈夫である。裏ヒゴは飾りや遊技用の籠を編むのに用いられる。着色し易いので赤、黄、緑、黒などに染められ製品に色を添える。その籠を花篭と称する。素朴な民芸品の様な美しさがある。山菜、茸、木の実、草の実などを採る際に用いられる。この花篭を抱いた時、女達はいつもより少しばかり華やいで美しく見えた。子供から婆さん達まで、それぞれの年齢の美しさを見せた。植物が、花の時期、最も美しいのは当然だが、花の時期以外でも、それぞれの時期に応じた美しさはある。種子にも、二葉、若葉にも、萎れ掛かった時期、枯れ果てた時期にさへ。人についても、私にはそう見える。その時々に相応しい、その時期の美しさはある。三才の女兒にも九十才の老女にも、それはある。そして、醜い花もある。醜い若い娘も捜す必要などない位、沢山いる。山菜採りも、イチゴ摘みも茸捜しも、当時は女達の仕事の内であった。だが、この仕事には楽しみがある。喜びがある。恐らく、その事が女達をより美しく見せていたのだろう。初夏の山麓の風景の一部であった。しかし、男共はガキさへ花篭や草イチゴなどには目もくれない。そんなものは女子供の一部だ。男共は山仕事や野良仕事から戻った日の晩方、晩飯の終わりしなに、楊子で金歯の間をせせる手をふと止める。或いは、番茶をがぶりと一口のみ、ウッ!等とやった後、今、初めて思い出した様に口にする。「鳥越の堤の辺りにゃ、イチゴが熟れていた様だったが〜。」等と。ここいらの昔の男共は女共に指図もしないし、命令もしない。ましてや頼んだりは決してしない。只、独り言をオッカァやカカァ共に聞こえる位の相当に大きな声で云ってみるだけだ。親父の独り言が聞こえたならば、聞いた方は瞬時に何をすべきか、すべきでないかを理解せねばならない。カカァもオッカァも、セガレもムスメも、それは同じである。この時点では、まだ、女子供達にも、いま流行の自由意志、自主性が尊重されている。此処では、女子供も自由意志で行動できるのだ。だが、この時点を過ぎると事態は一変する。男共の独り言は怒声となり、それが終わる間もなく、体罰というものに変わる。ここらでは、体罰以外に罰は存在しない。精神的苦痛を与える者は居ない。心まで支配せねば気が済まぬというほど支配欲に駆られる男は居ない。女子供も殴られたり蹴られたりする事はあっても、心まで支配され、説き伏せられ、問い詰められ、心から回心し、従わされる事はない。精神、心の自由は保てるのである。渋々、従う事も、嫌々する事も許されるのである。私などは此方の方が遙かに耐え易い。阿保な上司や教師に精神や魂まで支配される位なら、反抗と復讐の権化となってでも、暴力による支配に実を任せている方が楽である。説教好きの教師、魂の救済を説く坊主、人格の改造を求める上司などに出遭うと、私は途端に暴力的な自分を発見する事になったものである。