2005.6
創刊200号達成! 大勢の皆様から創刊200号のお祝い、お便り、祝メールなどを頂きました。(祝電はなし?)我ながら良く続いたものと感心?しております・・・ハイ! 取り急ぎ、紙上にて厚くお礼申し上げますと共に、今、201号を新しい出発点として300号を目指しま〜す???
早版、遅版?!
6月号は初めて新聞並の差し替え2版印刷?となりました。と、申しましてもトップページのみですが?執筆者諸氏の皆さんご多忙につき入稿締め切り日(26日深夜〜27日早朝)の直前直後に4稿集中?関係ないトップページからプリントするのですが、月初めにライブがあると間に合わず、未完の侭で取り急ぎ配布する羽目になります・・・特に編集局の当欄がズッコケる!?今回、6月2日は5月号で既に掲載済み(1版ではラストPの5月スケジュールのトップにまで?)なので、先へ先への精神で?完全に差し替えました。
ジャズクルージング イン 静岡!
今回は今迄で最高のジャズクルージングとなったそうですが、その地方版とも云える当催し!スケジュール欄に当紙HP参照&詳細次号とありますが、参加なされたい方はオールオブミークラブにご案内のチラシが御座います。思えば、5年ほど前?従業員&お得意様の慰安旅行から始まり、3度目の一昨年・小淵沢、昨年・浜松は当店の出演者を帯同して、六本木ジャズクルージング地方版として定着。地方からお声が掛かり、既に次回も進行中とは、誠に喜ばしい限りです。
                              今回の会場 徳川慶喜公の屋敷跡「浮月楼
読者のホ−ム・ページ (94) よっぱライフプランナー
 
5月、新緑の薫る季節になりました。足立区千住にある東京ガスの千住テクノステーションの視察会があり、行って来ました。東京ガスの資料によると、我々の生活に欠かせない日本の都市ガスには、約120年の歴史があるそうです。1940年代後半迄の約80年間は、石炭が都市ガスの殆どを占めていました。しかし、石炭を掘り出す仕事のきつさと原料不足から、1950年代になると原油からガスを作り出す技術が開発されましたが、同時に深刻な公害問題を引き起こしました。1965年以降になり、無公害のナフサやLPG(液化石油ガス)の開発が進みました。その後、石油に頼らないエネルギーとして、天然ガスが注目される様になりました。1969年から液化天然ガス(LNG)の輸入が始まり、今では原料全体の約90%を占める様です。都市ガスの工場では、タンクから送り出された液化天然ガスがベーパライザーという装置で暖められ、天然ガスに戻します。ここまでのガスには、色も臭いも無いそうです。ただ、ガス漏れの際に分かりにくいので、最後に臭いをつけるそうです。ガス臭いというのは、すぐにガスだと分かるようにつけた臭いでした。こうして、都市ガスが完成します。なかなか勉強になる内容でした。
 又、東京ガスでは、最近燃料電池にも力を入れているそうです。燃料電池とは反応物質(例えば天然ガスと空気)を与え続ければ、いつ迄も電気と熱を作り出す事の出来る、全く新しい発電装置です。この原理の発見は1802年と古いのですが、現在では都市ガスから取り出した水素と空気中の酸素を反応させる燃料電池の研究が進められている様です。当日、この燃料電池を搭載した燃料電池自動車に試乗させてもらいました。エンジン音もせず驚くほど静かで、自動車が近づいて来ても全く気づかない程でした。話によると、ハトも気づかないとのことです。金額も相当な物で、なんと1億5千万円!リースで月120万円!各家庭に普及するにはまだ時間が掛かりそうです。
久しぶりに使ってガスが掛かった頭にはウイントン・マルサリスのクリアなトーンでロンドン名物なるガスのテーマ・ミュージック?「A Foggy DAy」を聴いて、疲れた脳を休ませるに限る。そして、私の燃料でもあり?エネルギーの源でもあるバーボンを一杯。
 60 回   エロールあさかわ
「教育」問題についての論議が全国的な広がりを見せつつある今日、「教育」とは一体如何なるものかを考えてみた。広辞苑を調べてみると「教育」とは「他からある意図を持って働きかけ、望ましい姿に変化させることである。」と記されている。つまり教育とは教育する側の望む方向に変化させようとするものである。特に幼児、子供に対する教育とは全てマインドコントロールである。戦前の学校教育の中には愛国心、忠孝、忠君、滅私、軍国主義などが組み込まれていたが、戦後になると平和、民主主義、国民平等などという内容に変化して来た。「教育」とは国家や社会、親たちが其の利益のために施すことを目的として居り、それが子供達のためになるのだと説明している。此処で考えなくてはならないのは、戦前、戦後を通して教育が子供自身のためになったという例がないことである。学校教育に限らず親の行う教育にしても、親の利益、あるいは見栄のためであり、子供達の自由で健全な発育を考えた教育など施された例がない。其の要因の一つには現代日本の社会情勢、つまり「金銭至上主義思想」を基盤として創造された社会構造がある。今日の学校教育は「金銭至上主義思想」対応のための「左脳偏重教育」であり、此の教育についていけない不登校の子供や引きこもりの子供に対して「学校に行け!」と親は声を荒立てるだろうが、何の有効性もないし、逆に反抗心が強まるだけである。子供が不登校や引きこもり状態になった時、如何なる心構えで、如何なる行動をすべきかを教えることこそ、親として、または教育者としての資質が問われるのである。都知事、石原氏がある集会に参加した折り、「現在の学校教育のあり方を見る限り、自分の子供が不登校になっても構わない!」と語ったことがある。「学校で学ぶとすれば加減乗除と多少の読み書きだけで良い!」と発言した著名な数学者もいたが、社会人となって半世紀を振り返ってみて、「なるほど!」と合点することが多い。今後の学校教育のあり方も大改革が必要な時期に到っている訳だが、従来の「左脳偏重教育」から脱皮し、左右両脳のバランスを良好に保つための「バランス教育」の実施が望まれる。小学校の低学年の内に子供達の特質を見出し右脳的な発想の豊かな子供には、其の子供の特質や才能を伸ばす方法を考えることが、教育者として肝要であ
る。
雨に歩けば」 新 折人 #52       (2001/2〜) 
いよいよ日本列島「梅雨入り」だ。うっとうしい日が続くが、ジャズの世界では雨を歌ったリリカルな佳曲がたくさんある。いちいち数えるときりがないが、例えば、ハリー・ウオーレン作曲の「九月の雨」[September in the Rain](1937)、ミッシェル・パリッシュが詩を書いた「雨の中のライラック」[LilacsintheRain](1939)、ハロルド・アーレン曲、ジョニー・マーサー詩の「降っても晴れても」[Come rain or come shine](1946)等が即座に頭に浮かぶ。或いは、ややマイナーだが「雨の中を歩いても気にならない」[I don’t mind walkin’ in the rain](1930)等と言う曲があるかと思えば、「雨の中を歩くよりましじゃないかい」[Isn’t this better than walking in the rain?](1946)と言った曲もあったりする。
   雨を題材にした歌で、おそらく最もお馴染みは「雨に唄えば」[Singin’ in the rain](1929)だろう。この曲はもともと1929年の映画「ハリウッド・レビュー」(HollywoodReview)で「ウクレレ・アイク」ことクリフ・エドワーズが唄った。しかし、これが超有名になったのは、1952年のMGM映画「雨に唄えば」に主題歌として再登場してからである。主演のジーン・ケリーが、どしゃ降りの雨の舗道で傘をさしながらこの歌を踊り唄うシーンは、脳裏に焼き付く天下の名画面であった。このシーンをあしらったポスターは、今だに人気で、古いバー等にセピア色になってさりげなく掛けられている。
  ここで、ある曲を思い出さずにいられない。1953年6月1日、テネシー州刑務所に服役していた囚人5人が外出を許されて、とある録音スタジオにやって来た。リーダーはいくつかの強姦事件の犯人とされ、一生分(99年)の6倍の懲役刑をかせられていたジョニー・ブラッグという男だった。彼等はスタジオで、ブラッグのオリジナル曲を見事なコーラスで録音し、急いで塀の中に戻っていった。このスタジオは、実はエルヴィス・プレスリーが所属していたことで有名な「サン・レコード」のものだった。そして「サン・レコード」は、囚人服を思わせる黒い縞模様をあしらったレベルと、「プリゾネアーズ」[Prisonaires](囚人達)というグループ名をつけたレコードを製作し、これを発売してみたたところ、いたく評判となった。更にこの曲は、3年後にリズム・アンド・ブルース歌手ジョニイ・レイの歌でリメイクされて、大ヒットすることになる。その曲とは軽快な「雨に歩けば」(Just Walking in the Rain)である。有り得ない作り話しのようだが、いかにも懐の深いアメリカならありそうだ。
 ミュージシャンの皆さん。こんな話を思い出しながら、梅雨の季節でも元気に雨にちなむ曲を演奏し、歌ってください。
ルパンの私書箱〜from 田舎親父 (19)
 オカミサンは果実酒作りの名人であった。私は何かにつけて呼び出され、様々な果実酒の実験台となった。私は下戸だが味覚は確かだそうで、新しいのが出来る度に試される。私の悪酔いは出来の悪さの結果で、気分が悪くならなければ、仲々の出来らしい。大酒を喰らう奴らにゃ〜、味なんぞ分からないとも云っていた。私の方は口にも鼻にも甘いものだから、私の好奇心は私よりもイケル方である事と相俟って、結果、肉体のアルコール耐性を超えてしまう。決まって、嘔吐やひどい頭痛に悩まされる事になった。女達の不手際や失敗から生まれて来るという、半ば自然発生的な物とはいえ、草イチゴのそれは大変美味であった。とりわけ、ヤマモモ果実のそれは、私が最も好む物であった。淡い淡い青紫色、爽やかな香り、気品の高いほのかな甘さ、それにコクと深みを与える微かな渋み。殆ど深窓のに貴婦人の味わいであった。これに比べると、酒店の棚の上に並び、立派なスペイン語のラベルなど貼ってあるシェリー酒も洗練されてはいるが、そこらの通りを行く、只のシャレたベッピン程度の物ではアンメェ〜かと、私ごとき田舎親父は思うのだ。移り住んだ当時ここらの家では、酒屋で買って来る様な物は、他所者が訪れた時にだけ出て来るといった処であった。ジュースになる様な物は全てジュースになり、なり損ねて忘れられ、発見された時には酒になってしまっており、男共は不始末の片を付けなくてはならない、という習わしの様であった。甘い果実は勿論、糖分を含む物であれば、草の実、穀物、芋類など全てが例外なく、そういう運命を辿っていた様である。義理や人情、慣習、掟には厳しくとも法については大まかで、准法治地域、前近代的風潮を残していたこの地も、近代化した様である。サンダルを履いて家を出れば、5分以内にコンビニの一つや二つは出くわす。その間に、レストラン、スナック、カラオケ、パチンコ、焼き肉屋、ラーメン屋、その他、スーパーなど何でもある。カカアはスーパーに出掛けたついでに缶ビールをしこたま買って来る。そいつをTVを見ながら飲んでゲップをする。夜はカラオケで喚き立てヨレヨレになって戻る。ガキ共は自動販売機でドリンクを買い、歩きながら飲んで空缶はそこらの庭か草むらに放り込む。男共はオヤジも亭主も、そういうのを見ない振りして、こそこそパチンコをしに行く。私は大通りに背を向け、犬と山径を辿る。今、私の散歩径、鳥越の丘一帯は草イチゴの最盛期である。赤い実が美しく熟している。採る者も居ないから果実は熟し切って落ち、甘く甘く香りながら腐敗して行く。もう暫く経つと山間の彼方此方のヤマモモの大木が枝に実を付ける。赤紫から次第にその色を染めて行き深い紫に熟し、地に落ち、蟻にたかられながら腐って行く。山径を辿りながら記憶を辿る。記憶の小径には、彼方此方に懐かしい人々が佇んでいる。彼等は何時も同じ表情で迎えてくれる。叔父もキヨシオジも、オヤジもオカミサンも、そして板場のタダも・・・、Memory is one gift of God that deeth cannot destroy・・・。想い出は神の恵みの一つだ。死も奪う事の出来ぬ・・・。60歳を過ぎても生き長らえていると嫌でも気付く事がある。私の様に何時までも未成熟で、年上の達人や名人といった人々との付き合いが多いと余計にその傾向が強くなる。ごく親しい人々が次々に姿を消して行く。先を往く人々の姿が見えなくなる。そして今、私の前にはもう誰もいなくなった。私はその様な年齢になった。気がつくと、いつのまにか、私は想い出の庭に遊ぶ事が多くなっている。