2005.3
 ack−ack’通信
2005年2月21日(月) オリベホール
2003年9月に亡くなられた、笈田敏夫さんの生誕80年記念コンサートは、2003年のビデオ(2001年ブルーコーツ篇と2002年小生のクンテット+慶応ライト篇は昨年J'Z Bradにて上映)ではあるものの、大きなスクリーンに映し出されますと、共演者の猪俣さん、五十嵐さんらの参席もあり、見ていない小生などリアルタイム感覚組のみならず、皆さんが異口音に「今にもヤァヤァと現れそうだね」と感じる臨場感に溢れる素晴らしいコンサートでした。皆様のご支援により目出度くSold Out!となり、嬉しいながら一抹の寂しさも感じつつ、アフターアワーズの日本酒が美味しかったコト! 此処で一息 有り難う御座いました。
閑話休題 しかし、小生も清水の栗田丈資氏や足利の原 正夫氏みたいに、ボスをゲストに招いた自分のディナーショーをやって見たかったですネ〜。
2月26日(土) いきいきプラザー番町コンサートvol.77
いきいきブラザー番町・カスケードホールにての社会福祉法人:千代田社会福祉協議会主催コンサートに出演。前日にリーダーの小林氏より「申し訳ないのですが、先方が11時に入って下さいと・・・いえいえ、頃?で結構です・・・早過ぎてすみせませんねぇ〜」なる電話。バンマスのみ早く入って・・・なんてケースは小生の場合もままありますので快諾。いえいえ、それ以上に、母もケアセンターでお世話になっている身としましては、嫌も応もありません(前日に母との面会を済ませ・・・車で往復3時間&遠くなる耳が前回程度まで現状復帰する?様に最低2時間以上の会話、斎戒沐浴、心も新たに・・・勿論、11時前に入りました。ハイ!)。定員110名とありましたが、車椅子のままの方、シートに移られる方、杖使用の方など、多種多様なお世話が必要なので、必然的に介護士、付き添いの皆さんなどが加わり倍近くの皆さんでしたが、大変良い雰囲気で大盛況でした。プログラムも懐かしいスクリーン・ミュージック特集でしたので、笑顔で聞き入ってたり、首を振って楽しんでいたり、その姿を目の当たりして、此処に母も居ればなぁ〜なんて思いつつの演奏は本当に嬉しい限りでした。2月21日から間もなかった精か、2002年の12月にスタートした、笈田敏夫&大橋節夫さんの同様な趣旨のツアー期間途中にボスが骨折したこと、車椅子で以降の仕事を消化したこと等々が鮮明に思い出されました。でも、何故か可笑しく楽しかったことばかりで、人間の脳は、その様に出来ているからこそ生きていけるのだと読んだことがあります。正にその通りだからこそ救われるのでしょうね。まぁ〜、最近は忘れて救われるのではなく、単に困っちゃうケースの方が多いのですが・・・それこそ、幸せの証かな?お疲れ様でした。
読者のホ−ム・ページ (91)  Dancing Lawyer
  今回は、最近私が読んだ新書を紹介しましょう。脳死や臓器移植にも関係する話です。 洋泉社新書です。この新書シリーズは比較的最近出始めた新書です。その本は、「自己決定権は幻想である」(小松美彦著・・・1955年生で、現在東京海洋大学教授)です。最近「自己決定権」なる言葉や「自己責任」という言葉が安易に使用されていることに警告を発する本です。イラク戦争の関係で、現地にボランチアに行って誘拐された邦人の事件の時も、これらの言葉が政治家などからよく出てきました。特に、この本の著者の小松教授は、脳死・臓器移植など生命倫理学の学者で、簡単に脳死や臓器移植を認めてしまう、現在の内外の風潮に危険性を感じておられます。医学的・科学的観点からも、脳死には疑問が生じている重要な争点(脳死状態の人間は本当に何も感じていないのか?等々)はあります。しかし、その点は別としても、今の臓器移植法の根本には、そして、今も検討されている同法律の改定案にも、「我々人間は明確に反対していない限り、生まれながらに、脳死状態になれば他人に臓器を移植して良いと自己決定する存在である」という自己決定権を根拠としている基本的発想がある(これは、政府の臓器移植法案の委員長を務める「町野朔「まちのさく」上智大学法学部教授・・・専門は刑法)」が発案したものです)。しかし、著者は、これはおかしいというものです。人間の死などは個別性があり、そんなに一律に考えられるものではないと言うのです。ここには、いずれ近い将来、本来、心臓死が人間の死であると考えている人のことや、臓器提供は嫌だという人のことは軽視され、死んでいく人(ドナー)や、その関係者の思いなど、複雑な人間関係が軽視され、国家が権利を付与する(死や臓器提供の自己決定権)という美名の下に多くの国民に原則的に「事実上」脳死を死と認めさせ、また臓器提供を強制し、なお且ついずれ肯定される可能性のある遺伝子治療や国家の下での遺伝子情報管理とドッキングして、ナチスと同じ優生政策・健康政策が当然のことのように考えられる時代が来るであろうことに、深い憂慮をされています。私は著者と同世代(1954年生)なので、我々は無意識のうちに国家によって、本来、個々人の価値観や決定に委ねるべきことまで、ソフトな形でコントロール・管理されつつあるのでは無いか?という著者の危惧感も大切にしないといけないなと感じました。もし、将来こういう社会になった場合、誰が特をするのか?も、よ〜く考えなくてはいけませんね。1945年生まれと言えば、以前、バーボンをやりつつ同年作曲の曲はないかとネ1001をパラパラめくって見たが意外と少なく見つかったのが余りにも有名なサミー・カーンの「デイ・バイ・デイ」だったのを思い出しました。今宵はシナトラではなく、フォー・フレッシュメンで参りますか・・・。
57    エロールあさかわ
  現代日本社会は犯罪自由社会と呼ばれている。連日の如く報じられる犯罪の数々を見るにつけ、その面目躍如たるものがある。オレオレ詐欺を始め、ブルドーザーまでをも使っての大掛かりなる窃盗団の台頭。強盗。強姦。集団暴行。痴漢。盗撮。覗き。麻薬売買と常習。連続放火。援交という名の元に横行する少女売春等々、数え上げれば切りがない。特に最近、著しい増加を見せているのが、全く身勝手なる殺人である。しかも、其の大半が未成年者によるものである。未成年者の犯罪に対しては、責任能力がないと言うことで、保護監察扱いになることなども、急増の原因と思われる。現代の未成年者達は明治時代とは大きく違っており、犯罪に対する豊富な知識を持ち、裏情報も熟知している。信じがたい凶悪犯罪を起こせば、心神喪失状態にあったと主張する弁護団らの協力を得て、精神治療を受けることになることも承知している。或いは、保護施設、少年院に収監されて、一定期間の教育を受けた後に社会復帰することになるのである。此処で肝心なことは、二度と犯罪を犯したくないと思うような教育が本当に施されているのか、否かである。罪を犯す者は一般常識では計り得ない、独特な精神の持ち主であるということを知っていなくてはならない。保護施設や少年院などが如何なる改造教育を施しているのか、対象者によっての違いもあるではあろうが、犯罪者に持って生まれた資質というものがあるならば、一般常識的な改造教育などでは、全く意味をなさないのである。何度も同じ様な犯罪を繰り返す資質を改造するには、精神的にも肉体的にも、二度と罪を犯したくないと思わせる、徹底した改造教育を施す必要がある。
「ニューオリンズ紀行」  新 折人   #49
 本紙でその都度紹介して頂いているが、六本木の「オール・オブ・ミー・クラブ」で、毎月一回(原則第三土曜日)に「ローズ・ルーム」という催しをやっている。「ローズ・ルーム」とは、記念碑的な曲の名前に因んでいる。つまり、アメリカで始めてコンボをこえる編成のダンスバンドを1913年に結成したアート・ヒックマン(1886〜1932)が、出演していたサンフランシスコのボール・ルームの名前をとって1917年に作曲した曲のタイトルが「ローズ・ルーム」なのである。この催しでは、ジャズの歴史や時々の時代背景を、不肖私が作成した資料をもとに解説しながら、関連する曲をバンドに演奏してもらったり、都内で活躍しているヴォーカルや、おたくなお客さんに歌ってもらったりして3時間半を過ごす。毎回リピーターを含めて盛況だが、2月の第九回ローズルームは、有志を募って、なんと「ニュ・オーリンズ」に遠征してしまった。ジャズの聖地「フレンチ・クオーター」の一角の伝統あるホテルに泊まり、観光と買い物を交えて、本場のジャズを堪能したのである。
 「フレンチ・クオーター」には、石畳の狭い通りに面して、バルコニーの鉄柵に繊細な「鉄レース細工」が加えられたスペイン支配時代の建物が今だに残っている。まさに「古色蒼然としたアメリカ」がそのままタイム・スリップしたような「偉大なる田舎町」である。同時に「バーボン・ストリート」を中心に、扉の隙間からサウンドをしみ出させている「ジャズ・スポット」の街だ。石を投げれば生演奏のジャズの店に当る。それらの間を埋めるように、テーブルと椅子が往来にこぼれ出したようなカフェテラスが点在する。そして過激にも"Topless & Bottomless" などと看板に書いてあるストリップ小屋、デイスコ、ポルノ店、お土産店などもギンギンに立ち並ぶ。「ストリート・ミュージシャン」も質が高い。餓鬼どもが空き缶相手に、棒っ切れ一つで微妙にコントロールされた見事なリズムをたたき出している。老人夫婦までが、派手なシャツを着て腕を組み、リズムをとりながら楽し気に街を歩く。かって20世紀の初頭、この町並みを、バディ・ボールディンが女どもを従え、キング・オリヴァーが真面目くさって説教をたれ、ジェリイ・モートンが大法螺を吹き、シドニイ・ベシエが粋な紳士を気どり、サッチモが悪童面を引っさげて歩きながら、初期のジャズを醸成していったのかと思うだけでも、興奮を覚える。始めてこの地を訪れるメンバーも含む我々のお目当ては、昔からの「プリザベーション・ホール」や「メゾン・バーボン」あるいは「パーム・コート・ジャズ・カフェ」などのディキシー系名門ライブで、短い旅程の中でこれらの店をはしごした。おまけに、同行のプロ達は飛び入りで演奏に参加して大喝采をあびたのである。この間カクテルの「ハリケーン」や「アビタビール」とともに「ジャンバラヤ」や「ガンボ・スープ」など、「ケイジャン料理」や「クリオール料理」に舌鼓をうったのは当然。昼間は「ジャクソン広場」を出発点に、赤い市電に乗り、トリオが演奏する「ミシシッピ・ジャズ・クルーズ」を楽しみ、「ジャズ博物館」でそれなりの勉強をし、「フレ ンチ・マーケット」で買い物に血眼になり、1862年からある「カフェー・ドウ・モンド」で名物ドーナツの「ベニエ」と「チコリ・コーフィー」を試し、「ルイ・アームストロング公園」でサッチモの銅像に対面するなど、団体旅行にしては一糸乱れず、和気あいあい、効率的に滞在を楽しんだ。
 往路は期待に胸をはずませて「遥かなるニュー・オーリンズ」(Way down yonder in New Orleans)[1922]を口ずさみ、帰路は名残りおしい気持ちから「懐かしのニュー・オーリンズ」(Do you know what it means to miss New Orleans)[1946]が口をついて出たほどの旅だった。皆さん!最近は格安航空券などもあるので、まだの方は是非一度ニューオーリンズを訪問してみてはどうでしょう。 
ルパンの私書箱〜from 田舎親父 (17)
  「お〜い、小夜、小夜子、タダは居るか?此処へ来させろ。」。小夜子とは叔父の一人娘、私の従妹である。叔父が鷲の様な男とするなら、娘は白鷺の様であり、虎の様な男というなら、牝鹿の様な娘である。色白、ほっそりとして、目も鼻も細く、口は飾りに付いてるという風情である。タダは近所で仕出しをやっている男で私より幾つか若い。叔父とキヨシさんが店を出すのを手伝った。襖が開くとタダが板場姿で座り、頭を下げた。「タダ、頼むぜ。これに何か作ってやってくれ、これが最後の注文だ。」。「分かりました、で、オヤジさんは?」。「何か見た目に良いものを三品ばかり、キヨシにもな。それから、此処のは隣で、後から来る者に出してくんな」。「はい」。小夜子が襖を開き、目の前の卓は下げられ、別の卓が置かれた。「キヨシ、俺の病気のことはお前さんから話してくんな」。「そうか、じゃ言わして貰おう。タツミさんの命は保って後一ヶ月。医者はそう言っている。で、会ってものを言っておきたい人間が、こうして呼ばれている訳だ。ワシは証人って訳で、此処にいる」。「クニ、小夜子のことを頼む。話を聞いてやってくれるだけで良い。子供の頃からお前には何でも話す奴だった・・・結婚以外の話はな」。「はい、分かりました」。その後一と月を経ずして、叔父は死んだ。葬式の日は雨が降り、その日、私は引っ越しをした。トラックで叔父の家の前を通る時、参列していた葬儀客の多くは喪服の似合い過ぎる様な男達であったが、トラツクの助手席の私にも丁寧に頭を下げた。喪服の小夜子の細い白い顔が目立っていた。私の家は叔父が選び準備してくれた土地に建っている。キヨシジイサンの求めとあれば断る訳にはいかない。この老ヤクザは叔父に、私の面倒を見る様に頼まれた男であり、私は見て貰わなくてはならない。そして、私は小夜子の話を聞いてやらねばならない。私の周囲の人間関係はこんなものである。キヨシジイサンの家へ出掛ける。玄関を出る時、妻が四角い紙包みを手渡す。この辺りの男達は甘党とか辛党という分類には入らない。茶を飲む様にアルコール類を口にする。洋菓子を除けば黒砂糖から羊羹まで、甘さにパンチの効いたものなら、何でも男の食い物と言うことになる。私の処に届く知人からの昔羊羹も、そういう土地柄を知っての事らしい。昔羊羹は全体が白く固い砂糖の結晶の様なもので覆われている。キヨシジイサンも支部長も、叔父も皆、羊羹、殊に昔羊羹が好物であった。ジイサンの家に着くと、パッと玄関に明かりがつく。和服のカミさんが膝をついて迎えてくれる。靴を脱ぎ掛かけた私の耳元で囁く。「眠れないらしくってネ、起き出して大騒ぎ。すまないネェ。」。私は婆さんの後ろ姿を見てドキリとする。髪を高く結い上げた首筋は今だにキリリと筋が入っている。背も腰も僅かの隙もない。素肌には何か凄いものが彫ってあるという噂だが、誰も本当に見た者は居ない。私も背中のそれは見たことがない。だが、噂が本当だと思うような者を一度だけ目にした事がある。私が三十代半ば、彼女は多分二十代以上年上であった。ここらの男達の多くがそうだが、キヨシジイサンも猟をする。彼の家から南百米程の所に池がある。栗とクヌギ、柿園の中にあって、周囲は竹笹で囲まれている。池は浅く、広く、底は砂泥で、夏には女子供が泳いだり、潜って蜆を採ったりする。冬は減水して浅く、最深部でも人の身丈程の水深となり、鴨たちが来る。夕刻から愈々闇の迫る頃、池に舞い降りる鴨の群れがシルエットで見える。キヨシジイサンは退屈しのぎに、銃を持って出掛けて行き、ズドンと一発ぶち放す。当時でも此の時期は時間外発砲で違反である。しかし、この時刻、この場所で発砲して、迷惑なのは鴨たちだけだ。銃声を聞いてもわざわざ警察に通報するような者は居ない。当時は狩猟法違反などしなくても獲ろうと思えば何時でも獲れた。何よりも鴨など撃つのは初心者という頃であった。暗くなってから無理して鴨などを撃つ者など居ない時代であり、ジイサンの退屈しのぎを気にとめるような者は居なかった。   以下次号