2005.2
  2月21日、笈田さんの生誕80年を祝うビデオ・コンサートが開催されます。お祝いなのに、本当のお別れを迎えるような複雑な気持ちでもありますが、何はともあれ、嬉しい限りです。76、77、78歳と3年間のみなのは残念!?ですが(他にも多くのコンサートが収録されてるので・・・)、77年・喜寿のバースデーコンサート(日本青年館)に小生も出演しております。ボスの背中からだけではなく? 客席からの雰囲気を味わえることを大いに楽しみにしております。勿論、昼夜とも・・・です。お見落としのお方?は必見で〜す。是非、ご覧になって下さい。
読者のホ−ム・ページ (90)  よっぱライフプランナー
 「マサカリ投法」と云えば直ぐにお解りの方が多いのでは?そう、ロッテのエースであった、村田兆治氏である。先日、氏の講演を聴く機会があった。氏は1949年、広島生まれ。福山電波工業高校(現近代福山高校)から1968年、ドラフト1位で東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)へ入団。4年目の1971年に独特のマサカリ投法を考え出して12勝を挙げ、エースとして活躍し始めた。1974年には以後、伝家の宝刀となるフォークボールをマスターして21勝をマーク。1981年には19勝で最多勝のタイトルを獲得。しかし、1982年に右肘を故障、再起不能とまで言われる。当時のプロ野球界では、投手が利き腕にメスを入れるのは投手生命の終わりだと言われていたが、氏は、アメリカのジョーブ博士による手術を決断。2年間のブランクの後、1984年に奇跡の復活を遂げた。1985年には開幕11連勝という快挙を達成し、17勝を挙げる。復活後は、中6日で毎週日曜日に登板する為「サンデー兆治」の異名を取った。1990年、史上2人目の40歳台2ケタ勝利を挙げ、その試合を最後に引退。2005年、野球殿堂入り。全盛期の球速は155キロを記録していたといわれる。引退して14年、55歳の今、野球に懸ける情熱は健在であり、島の人達の暖かさに触れたことが縁で、引退後に離島巡りを始める。日本には離島が約220あるといわれるが、可能な限り離島を巡り、少年少女達に本物のピッチングを見せて来た。又、プロOBで「マサカリ・ドリームズ」を結成。今後はチームとして離島振興のため島民との親善試合や少年少女達の野球教室を開く。ダイエーコーチ時代には、心筋梗塞で手術を受け、今も血管に小さな金属板が埋め込まれている。それでも日々のトレーニングは欠かさず、驚くほど柔軟な筋肉を維持している。トレーニングジムには行かず、身の回りにあるものでトレーニングをこなす。54歳の昨年11月、マスターズリーグで141キロを記録、現在ギネスブック申請中だという。日本ハムファイターズが北海道に移転する際、氏に現役復帰させようという案が本当にあったという。当然、ワンポイントリリーフや抑えの切り札として、新庄と共に新生ファイターズの目玉にしようとしたのであろうが、「人生先発完投」を座右の銘にする氏のこと、仮に正式要請があったとしても受けなかったであろう。講演は氏の情熱が迸る迫力あるものであった。決して話上手ではないが、「信念を持って成功を確信する」という言葉から解るように、確固たる信念を持って誠心誠意の心で生きておられると思われる。「140キロを出せなくなったら野球をやめる」と言っておられるらしいが、このまま行くと60歳でも140キロ近くのボールを投げそう、そんな気持ちにさせる氏の気迫であった。久々に興奮した日になった。元気が湧いてくる。この昂ぶる気持ちは名盤マイルス・トーンズのTwo Bass Hitで、初めてフィリーのドラムソロを聞いた時に通じるかな・・・何たって二塁打だものなぁ〜??昂ぶった心をバーボンで静めて、あ〜、至福の夜だなあ〜。
46    エロールあさかわ
  国公立大学を始め私立大学、学院大学、短大、専門大学、その他の特殊大学を合わせると、その総数は昭和30年代に比べて約20倍以上にも増加している。九州福岡県出身の私の高校時代を振り返ってみると、受験対象となる大学は地元iェ市内にある九州大学、福岡大学、西南学院大学、iェ学芸大学。それに福岡近郊にある大学として佐賀大学、熊本大学、久留米大学位しか無く、福岡県と近郊の高校190校の生徒たちが受験することになっていた。当然、競争率は高く、旧帝国大学であった九州大学などには各高校の秀才と云われる連中が集中し、その秀才連中の中で20数倍という競争率を示した程である。受験生の中には二浪、三浪を重ねてようやく入学できたという者も大勢いた。ところが昭和40年代になると戦後最大のベビーブームが到来し、既存の大学数ではとても進学希望者を収容できなくなった。その為に文部省は査定に手心を加えた否かは別にして、新制大学の設立を次々と許可した。だが皮肉なことに昭和50年代の後半に入るとバブル景気が崩壊し始め、急速な少子化が進んでしまった。困ったのは乱立した多くの大学である。毎年、受験生獲得に奔走しなければならなくなってしまったのだ。中には募集人数に満たない大学も出て来る始末である。大学として生き残るには何かの特色を備えることが必要となり、考えられた案の一つがスポーツ部門でのアピールである。つまりサッカーや野球、バスケット、バレーボール、柔道、マラソンなどで名を売ることで名門の称号を得ようとしたのである。頭の内容はともかく何かのスポーツに秀でるものがあれば入学を許可した。知性や教養は二の次、三の次でスポーツに秀でた者を最優先とする大学が増えてしまった。頭の中まで筋肉になった人間に一般常識やモラルなどが理解出来る筈もなく、集団暴行や痴漢行為に及ぶことなど罪悪感さえ感じては居ないだろう。世間から非難されるので「申し訳ありません。」と詫びて見せただけのことである。亜細亜大学野球部の集団痴漢事件で5名の選手が逮捕されたが、野球部の監督の言葉には茫然としてしまった。「痴漢行為を受けた女性には申し訳ないとは思うが、しかし私は選手たちを信じています。」とノタマウのである。痴漢の常習犯として警察当局がマークし、現行犯逮捕した悪ガキどもの何を信じると云うのか。しかも、廃部することなく、暫く自粛させると云うのだ。イヤハヤ・・・
ラテン音楽とジャズ」 新 折人   48
ラテンの名曲"Besame Mucho" [ベサメ・ムーチョ](英語名 "Kiss me much" )は、珍しく女性の作である。ブラジルのピアニストで作曲家のコンスエロ・ヴェラスケス が、1941年、21歳の時に書いたが、アメリカに入って大ヒットした。同時にジャズ・ミ ュージシャンもこの曲を素材とし、ジャズ化して使った。例えばウエス・モンゴメリーやアート・ペッパーなどが名演を残しており、いわゆる典型的なラテン・ジャズの一つとなった。
 そのコンスエロ・ヴェラスケスの訃報が飛び込んで来た。84歳であった。
もともと、ラテン音楽は、過去から現在に至るまで、多かれ少なかれジャズの形成に影響を与え続けている。古くはW・C・ハンデイの、"St.Louis Blues"(1914)はブルースの典型のように言われているが、この曲の中には16小節ほどの、ハバネラ調の部分があり、キューバ音楽の影響を強く受けたことを示している。1930年に有名になった曲がキューバの "El Manicero"(1929)というルンバで、この曲はその後、"Peanut Vender"(南京豆売り)として、デューク・エリントン、ルイ・アームストロングなどアメリカのジャズ・ミュージシャンが盛んに取り上げた。1933年にビング・クロスビーが唄った、"Temptation"もルンバ調のエキゾチックな歌である。1935年には、コール・ポーターがビギンのリズムを入れて、108小節もある"Begin the Beguine"(ビギン・ザ・ビギン)を書いた。彼はパリに滞在している時に、仏領マルチニーク島から来ていた芸人のリズムを聴いて、この曲を書いたという。1940?41年に「アメリカの作曲家協会」(ASCAP)と「放送音楽会社」(BMI)との間の著作権を巡る対立で、ASCAPが著作権を保有する曲の放送が出来なくなった。この時、これに抵触しないラテン曲が多数流入、あるいはリバイバル・ヒットした。その内の一曲がヴェラスケスの「ベサメ・ムーチョ」であった。
 モダン・ジャズの世界でも、カリブ海諸島の音楽に魅了され接近したミュージシャンは少なく無い。チコ・ハミルトンがそうであった。スタン・ケントンは白人だが、アフロ・キューバン・リズムに最も深い関心をよせた一人であった。ディジィ・ガレスピーもキューバ音楽を始めとするラテン音楽の影響を大きく受け、それらに対する情熱は、終生衰えることがなかった。フュージョンを主導したマイルス・デイヴィスも当然のこととしてラテン・リズム、特にジャマイカのレゲエに強い興味を示した。ソニー・ロリンズはカリプソに親しんだ。ディジィ・ガレスピーの[チュニジアの夜]、ソニー・ロリンズのアルバム「サキソフォン・コロッサス」(Saxophone Colossus)の中の「セント・トーマス」(St.Thomas)などは、その典型であろう。1961年アメリカはキューバと国交を断絶し、この結果ミュージシャンは従来以上にブラジルに眼を向けた。特にスタン・ゲッツのボサノヴァへの思い入れは尋常ではなかった。アーネスト・ボーンマンのように、「ジャズはニューオーリンズに発生したラテン・アメリカ音楽の一種である。」とまで言い切ってはばからない評論家もいる。このことは、黒人奴隷の多くが「三角貿易」の中でしばらくカリブ海諸島に滞留して文化的洗礼を受けた後、アメリカにやって来て、その遺伝子がジャズに注入されていることを考えると、あながち突飛な説とも言えない。
コンスエロ・ヴェラスケスの訃報に接して、あらためてラテンとジャズの蜜月関係に思いを致すとともに、日本の曲がほとんどジャズの素材になれずにいることに一抹の淋しさを感じている。
ルパンの私書箱〜from 田舎親父 (16)
 
 釣り師は違う。やれ、使い勝手が、大きさが、重さが、丈夫さがと、下らない事ばかり口にする。私自身の最も大切であろう、私の内なる部分の浸み出した分泌物みたいなもの、それは多分、浮子の形の陰の僅かな違い、色合いの透け具合の僅かな違いに過ぎないのだが、そういう処には気が付かない。隣のオバチャンやら釣りのツの字も知らない知人の方がまだましだ。少なくとも、彼等は私の最も下らない部分、醜悪な部分、欠陥、欠点、間違い、失敗などを指摘したり、私のものに自分の好みを混ぜようとはしていない。ほんの僅かであっても良い部分を見てくれている。感謝すべきであり、心底嬉しくなる。持ってってくれ・・・となるのは当然だろう。傷んだ果実を喰うのに、傷んだ部分だけ、或いは傷んだ処から真っ先に喰う者など居ない。しかし、文学やら音楽、絵などになると、忽ち欠点や失敗、間違いから真っ先に味わおうとする様な者が多いのは何故だろう・・・大昔からそうだった様だけれども。私は生意気なガキの時分に、祖父にひどく叱られた事がある。シートンの動物記の中に擬人化の行き過ぎを感じ、それを口にした時、「お前はリンゴを喰う時、皮があるから駄目だと云ってる様なものだ。皮のないリンゴなど無い。リンゴの皮だけ喰おうとする奴は大馬鹿だ。中の美味い処だけ喰えば良いではないか」と云われた。以来、私はリンゴの皮はなるべく喰わない様にして来た。私には、貴兄がリンゴの皮や芯や傷ついた瘤ではなくて、ほんの僅かでもあるか知れない中身を味わってくれた事が何よりも有り難い。この年齢になって初めて文章を読んで貰い嬉しい限りだ。こういう告白は、私の如きド素人に取ってさへ、相当な勇気を要する事、ご理解頂けるだろう・・・。そして、ふと思い直し、あゝ、一流ともなれば、流石にド素人の書くものにも何かは見つけ出してくれるものだと、感慨を深くしている。私は釣りも、猟も、文章書きも、只の素人の趣味で終わってしまうに違いないのだが、貴兄のお陰で今後も楽しく続けられる気がする。貴兄に伝えたくなるものを求めて、この田舎の村を、水辺を、そして森の中、藪の中を彷徨い歩き続けよう。
  夜も更け、一日がもう一時間程で終わろうかという頃、電話のベルが鳴った。妻が出て何か話している。言葉遣いが丁寧だ。私は出掛けなくてはならない。妻が受話器を私に渡す。「アゝ、クニさん。アタシダヨ。ウチの人がチョイと電話してみろって言うものだからネ。どうしてるかってネ」。どうしてるも何も、私は昼關博條ヤ、電話の主のダンナの側にいて、戦地での珍談、奇談、怪談、失敗談の類をタップリ聞かされ、何とか無事に帰還を果たし、ようやく現実に戻り掛けている処なのだ。叔父の戦友、親友であるキヨシ爺さんは、全身炎に包まれた不動明王を背負って、叔父と半生を伴にした男である。叔父は胃癌の末期を宣告された直後、私を呼んだ。神棚を背に叔父とキヨシ爺さんが料理と酒の卓を前にして私を待っていた。「クニ、俺はもう終わったぜ。オメエ、家の方はきちんとはかどってるかい。俺のアテじゃあ、どうも、俺の葬式とオメエの引っ越しがいちどきになりそうだ。だから云っとくが、そうなっても引っ越しはキチッとやらにゃならネェ。葬式にゃ出なくて良い。後で拝んでくれりゃあ良い。仏前にゃ、雉子、バン、鴨を供えてくんな。精進料理は真っ平だぜ。後の事は、このキヨ爺が見てくれる。何でもキヨシに相談しな」。「と、言うことだ」とキヨシ爺さん。「ハイ、よろしくお願いします」。「クニ、飯はまだだろう。今まで余り美味いもんも喰わせてやらなかったんで今日は最後に奮発しようと思ってな。」卓には四五人分もの料理が並んでいる。「有り難う御座います」。私が目の前の料理を眺めて頭を下げると叔父は言った。「何、此処ににあるようなもなァ〜喰わなくて良い」。   以下次号