2005.1 | ||
---|---|---|
![]() |
||
ack−ack’通信 | ||
![]() |
||
![]() |
||
2月11日(土) A Little Early X'mas in Jazz!at Cozy-Circle![]() しかし、2004年はack-ack'Live開催が協賛を含めましても僅か5回に止まり、些か職務怠慢でした・・・ハイ、反省。 年忘れ破茶目茶ジャムセッションでの皆さんの勇姿は2月号に掲載致しま〜す。 乞うご期待! ![]() |
||
![]() |
医師かすすめる最高の名医 患者が医者を選ぶセカンドオピニオン時代の為の、実力の770名医、信頼の450病院を徹底取材で掲載! 講談社 ¥1,200− 当紙のスポンサー?ジャムセッションご常連!ファースト・アルバムのプロデュース&共演を務めるなど、何かとお付き合いの深い、皆様も良くご存知の船山先生が下町の名医として紹介されています。雑誌やテレビにも良く登場?なされてる先生でありますが、日本にもセカンドオピニオンが浸透し始めた時期のタイミング良い発刊でもあり、あらためて紹介致します。以前、母もお世話になりました。いえいえ、糖尿病では・・・? |
|
読者のホ−ム・ページ (89) Dancing Lawyer![]() |
||
やぶにらみ 第55回 エロールあさかわ 一般庶民が払った血税の搾取は道警や各県警に止まらず、全国の県庁、区役所、市役所、各出張所にまで及んでいる事が判明した。今回、発覚した或る地方の市役所では一年間で四億三千万円もの税金搾取が行われていた。カラ残業、カラ出張、カラ会議などが主であるが、この額はあくまでも隠しきれなかった額のみである。実際にはその三倍以上に上ると推測される。一年間でこれほどの税金搾取が行われていたとなれば、全国の役所関係で過去三十年間に行われた税金搾取は一体どの位になるのか?恐らく天文学的数値になるに違いないが、それに加えて政治家、官僚、各省庁に於ける使途不明金という名目の税金搾取金の総額は考える事すら嫌になる。一般庶民からの税金免除を二十年間続けてもお釣りが来る事だろう。あの手この手で搾取した税金の使途はと言うと、高級クラブや料亭での飲食代や女性同伴での海外旅行、或いは高級車の購入や愛人のためのマンション購入に使われている。中にはギャンブルで負けた掛け金の穴埋めに使われたりしている。我々庶民が永々払い続けて来た血税の何十%かが政治家、官僚、各省庁の役人及び全国の県庁、市役所、町役場、出張所に到るまでの職員達の搾取で消えていることになる。内部告発によって税金搾取の件が明らかになった以上は厳重訓戒とか三%の減奉などと言った形ばかりの罰則ではなく、今まで搾取した分は自宅を処分してでも返済すべきである。散々無駄遣いをしたあげく財政が苦しくなると税金滞納者を厳しく追及し、家財を差し押さえてでも税金を取り立てる。強制取り立てなどとはトンデモナイことだと言いたくなるのは小生に限った事ではあるまい。「お宅様にも色々とご事情が御座いましょうが、私共の税金の無駄遣いのため財政困難となっております。国を助けると思し召して払って頂けないでしょうか。いえいえ全額とは申しません。不足分は私ども、着服した分で補わせて頂く所存で御座いますデス。ハイ。」てな事ぐらい言って欲しいものである。税金搾取はキャリア組の事であって我々の預かり知らぬ事だと反論を試みる職員も居るだろうが「バカヤロウ!」と怒鳴ってやりたい。ボーナスや退職金の額の大きさは当然の事ながら年金の額にも大差があり、庶民には利用出来ぬ超豪華な保養所や最新設備が整った三LDKのマンションが二万円とは何ごとだ! |
||
![]() 明けましておめでとうございます。皆様お揃いで良き春をお迎えのことと思います。 つい先頃「21世紀の幕開けだ!」等と騒いでいたと思ったら、もう2005年を迎えました。私のような凡人は、新年を迎えるたびに、一世紀前はどうだったかなどと思います。 今から100年前の1905年には、「ラグタイム」や「ブルース」は知られていましたが、まだ「ジャズ」という言葉は一般的ではなく、音楽ジャンルとして認知されていませんでした。この音楽の原流は、ニューオーリンズに於いて、1800年代を通じて、高級なワインの如く時間をかけて徐々に「醸成」されてはいましたが、それは熟成して「蔵出し」出来るまでには至っていなかったのです。良く知られるように、「ジャズ」という言葉が、人々に広く知られるようになったのは1917年以降でした。即ち、1917年の2月に、ニューオーリンズ出身、白人コルネット奏者のニック・ラロッカ(1889〜1961)が率いる "Original Dixieland Jass Band"(ODJB)が、 "Original Dixieland Jass Band One Step" と "Livery Stable Blues" の二曲をニューヨークでレコードにし、これが爆発的に売れたことによります。この時彼らがタイトルに使ったのは"Jass" でしたが、2?3年後に "Jazz" として統一されました。つまり「ジャズ」が認知されてからは、まだ100年経っていないのです。逆にいうと、わずか一世紀足らずという短期間で、世界の隅々まで行き渡るほど国際化したという点で、ジャズはまことに希有な芸術文化であると言えます。 100年前の1905年には、デューク・エリントン(1899〜1974)は6歳、ルイ・アームストロング(1901〜1971)やビング・クロスビー(1901〜1977)はまだ4歳の餓鬼でした。トロンボーンのジャック・テイーガーデン(1905〜1946)やコルネットのレッド・ニコルス(1905〜1965)が、やっとこの年に生まれています。しかしこの頃、既にニューヨークの、「ティン・パン・アリー」(Tin Pan Alley)と呼ばれる場所では、多数の楽譜出版社が集り、白人ソング・ライター達が佳曲を生み出しはじめていました。そうした中で丁度100年前の1905年に、作詞のハリー・ハイラム・ウイリアムス(1876?〜1920)と、作曲のイグバート・ヴァン・アルスタイン(1882?〜1951)の若い素人コンビが、今に残る名曲 "In the Shade of the Old Apple Tree"[林檎の樹の下で]を書いて、楽譜100万部を売りました。この曲は、後に 多くのジャズ・ミュージッシャンが取り上げた他、日本では1937(昭和12)年にディック・ミネ(1908〜1991)が、〈♪林檎の樹の下で 明日また逢いましょう・・〉という日本語の歌詞でフォローしました。 この「ティン・パン・アリー」で、1910年頃からアーヴィング・バーリン(1888〜1989)、ジェローム・カーン(1885〜1945)、ジョージ・ガーシュイン(1898〜1937)らがソング・ライターとしてのスタートを切ることになります。今、ジャズのスタンダードといわれる多くの曲が、彼ら白人によって書かれていることを考えると、「ジャズは黒人が造った音楽だ」と短絡的にいうことは正確さを欠きます。 「温故知新」といいますが、若いミュージシャン達は、あらためて100年前のジャズの懐妊期の事などを研究し吟味し直し、そこから着想して、このところ行き場を見失っている感のあるジャズ・ジャンルに新風を吹き込んでもらいたい・・・これが、一老人の初夢でありました。 |
||
ルパンの私書箱〜from 田舎親父 (15)![]() |