2005.1
 ack−ack’通信
2月11日(土) A Little Early X'mas in Jazz!at Cozy-Circle
  当店にて2回目のack-ack'協賛ライブでしたが、前回(9/10)にも増す大盛況!ロウ・プライス、フリードリンク&豪華オードブル・・・差し入れ多数、仮面プレゼント、生バンド付?と来ましては当然ながら、店内は50名程の熱気で正にムンムン。会長・ノッコちゃん、幹事・トモ&カズちゃん?の連係もよろしく、大ハッピイーなパーティーとなりました。ジャム参加者も足利から遠路泊まり掛けインスト組・ピアノの原ちゃん、E氏(p)、M氏(cl)諸氏・・・All of Me Clubでのアフター・アワーズまで熱演・・・を始め、紳士組O氏、S氏、K氏、淑女組Hさん、R嬢などのヴォーカル陣も絶好調にてホットなステージを展開。、皆さんスウィングしてましたね・・・お疲れ様でした。写真はごく一部て〜す。 
  しかし、2004年はack-ack'Live開催が協賛を含めましても僅か5回に止まり、些か職務怠慢でした・・・ハイ、反省。
年忘れ破茶目茶ジャムセッションでの皆さんの勇姿は2月号に掲載致しま〜す。     乞うご期待!
  医師かすすめる最高の名医
   患者が医者を選ぶセカンドオピニオン時代の為の、実力の770名医、信頼の450病院を徹底取材で掲載!                                     講談社 ¥1,200−

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読者のホ−ム・ページ (89) Dancing Lawyer
 新年、明けましておめでとうございます。今年こそ良い年になって欲しいと、残念ながら、この数年間言い続けています。でも、まだまだですね。昨年の平成16年(2004年)を振り返りましても、余り良い年とは言えませんでした。イラク戦争等・異常気象・地震・重大犯罪の発生・長引く不況等のマイナス面が目立ちました。しかし、オリンピックでの日本人選手の活躍や、大リーガーのイチローの活躍や、女子ゴルフ界での若手選手の活躍等スポーツ界は充実していました。プラス面です。もう一つのプラス面は、北朝鮮の拉致問題の曽我ひとみさんの家族全員が日本に帰国でき、落ち着けたことでしょうか。まあ、もう一つおまけを加えるならば、いわゆる「韓流」ブームでしょう。「冬のソナタ」をはじめ、韓国ドラマの異常な盛り上がりによって、今まで以上に、日本人(特に中高年以上の年齢の日本人)が韓国に興味・好感を持ち、民間の日韓交流が良好に発展したことです。韓国のこれらのドラマは、今の平均して50歳代以上の日本人たちの琴線に触れたのです。私は、この韓流ブームは、昔に見た映画の「ある愛の詩」や「男と女」に源泉があると思います。私も含め「団塊の世代」以上が中心でしょう。 韓国人の多くは、フランスにあこがれていると聞きます。私が感じたのは、韓国の一連のドラマは、正に「フランシス・レイ」や「クロード・ルルーシュ」の世界に範を得ていると、確信しています。皆さんもそう思いませんか?最近では、日本においては、このようなドラマ・映画は、見かけなくなりましたね。「純愛」などというと、日本では、「ダサイ」と思われるからでしょう。でも、本当は今の若い人たちも、純粋なピュアな気持ちを持って、恋人たちに、気持ちをぶつけたいのではないでしょうか?我々中高年も含め、もっと自分の気持ちに、素直になった方が良い気がします。若いうちから、斜に構えていては、ストレスがたまるだけです。日本は、過去、韓国にも多大な迷惑をかけたわけですが、このような文化交流が、今後も、双方の国の良い関係を維持発展できればと、心から願っています。今年こそ、我が国も、景気も回復し、国際関係でも良い年にしたいものです。みなさん頑張りましょう。さて、フランシスといえば1960年頃に映画「危険な関係」で初めて聞いた、フランス人・バルネ・ウィランのテナー・サックスに痺れた事を思い出しました。今も、彼がバラードで吹くモリタ−トに痺れながら、バーボンを一杯やりながら、書き綴りながら・・・ハテ?頭もCDの様にまわってきたかな! 
55回   エロールあさかわ
 一般庶民が払った血税の搾取は道警や各県警に止まらず、全国の県庁、区役所、市役所、各出張所にまで及んでいる事が判明した。今回、発覚した或る地方の市役所では一年間で四億三千万円もの税金搾取が行われていた。カラ残業、カラ出張、カラ会議などが主であるが、この額はあくまでも隠しきれなかった額のみである。実際にはその三倍以上に上ると推測される。一年間でこれほどの税金搾取が行われていたとなれば、全国の役所関係で過去三十年間に行われた税金搾取は一体どの位になるのか?恐らく天文学的数値になるに違いないが、それに加えて政治家、官僚、各省庁に於ける使途不明金という名目の税金搾取金の総額は考える事すら嫌になる。一般庶民からの税金免除を二十年間続けてもお釣りが来る事だろう。あの手この手で搾取した税金の使途はと言うと、高級クラブや料亭での飲食代や女性同伴での海外旅行、或いは高級車の購入や愛人のためのマンション購入に使われている。中にはギャンブルで負けた掛け金の穴埋めに使われたりしている。我々庶民が永々払い続けて来た血税の何十%かが政治家、官僚、各省庁の役人及び全国の県庁、市役所、町役場、出張所に到るまでの職員達の搾取で消えていることになる。内部告発によって税金搾取の件が明らかになった以上は厳重訓戒とか三%の減奉などと言った形ばかりの罰則ではなく、今まで搾取した分は自宅を処分してでも返済すべきである。散々無駄遣いをしたあげく財政が苦しくなると税金滞納者を厳しく追及し、家財を差し押さえてでも税金を取り立てる。強制取り立てなどとはトンデモナイことだと言いたくなるのは小生に限った事ではあるまい。「お宅様にも色々とご事情が御座いましょうが、私共の税金の無駄遣いのため財政困難となっております。国を助けると思し召して払って頂けないでしょうか。いえいえ全額とは申しません。不足分は私ども、着服した分で補わせて頂く所存で御座いますデス。ハイ。」てな事ぐらい言って欲しいものである。税金搾取はキャリア組の事であって我々の預かり知らぬ事だと反論を試みる職員も居るだろうが「バカヤロウ!」と怒鳴ってやりたい。ボーナスや退職金の額の大きさは当然の事ながら年金の額にも大差があり、庶民には利用出来ぬ超豪華な保養所や最新設備が整った三LDKのマンションが二万円とは何ごとだ!
 「ジャズ蔵出し直前の一世紀前」 新 折人 #47
明けましておめでとうございます。皆様お揃いで良き春をお迎えのことと思います。
  つい先頃「21世紀の幕開けだ!」等と騒いでいたと思ったら、もう2005年を迎えました。私のような凡人は、新年を迎えるたびに、一世紀前はどうだったかなどと思います。
 今から100年前の1905年には、「ラグタイム」や「ブルース」は知られていましたが、まだ「ジャズ」という言葉は一般的ではなく、音楽ジャンルとして認知されていませんでした。この音楽の原流は、ニューオーリンズに於いて、1800年代を通じて、高級なワインの如く時間をかけて徐々に「醸成」されてはいましたが、それは熟成して「蔵出し」出来るまでには至っていなかったのです。良く知られるように、「ジャズ」という言葉が、人々に広く知られるようになったのは1917年以降でした。即ち、1917年の2月に、ニューオーリンズ出身、白人コルネット奏者のニック・ラロッカ(1889〜1961)が率いる "Original Dixieland Jass Band"(ODJB)が、
"Original Dixieland Jass Band One Step" と "Livery Stable Blues" の二曲をニューヨークでレコードにし、これが爆発的に売れたことによります。この時彼らがタイトルに使ったのは"Jass" でしたが、2?3年後に "Jazz" として統一されました。つまり「ジャズ」が認知されてからは、まだ100年経っていないのです。逆にいうと、わずか一世紀足らずという短期間で、世界の隅々まで行き渡るほど国際化したという点で、ジャズはまことに希有な芸術文化であると言えます。
 100年前の1905年には、デューク・エリントン(1899〜1974)は6歳、ルイ・アームストロング(1901〜1971)やビング・クロスビー(1901〜1977)はまだ4歳の餓鬼でした。トロンボーンのジャック・テイーガーデン(1905〜1946)やコルネットのレッド・ニコルス(1905〜1965)が、やっとこの年に生まれています。しかしこの頃、既にニューヨークの、「ティン・パン・アリー」(Tin Pan Alley)と呼ばれる場所では、多数の楽譜出版社が集り、白人ソング・ライター達が佳曲を生み出しはじめていました。そうした中で丁度100年前の1905年に、作詞のハリー・ハイラム・ウイリアムス(1876?〜1920)と、作曲のイグバート・ヴァン・アルスタイン(1882?〜1951)の若い素人コンビが、今に残る名曲 "In the Shade of the Old Apple Tree"[林檎の樹の下で]を書いて、楽譜100万部を売りました。この曲は、後に 多くのジャズ・ミュージッシャンが取り上げた他、日本では1937(昭和12)年にディック・ミネ(1908〜1991)が、〈♪林檎の樹の下で 明日また逢いましょう・・〉という日本語の歌詞でフォローしました。
この「ティン・パン・アリー」で、1910年頃からアーヴィング・バーリン(1888〜1989)、ジェローム・カーン(1885〜1945)、ジョージ・ガーシュイン(1898〜1937)らがソング・ライターとしてのスタートを切ることになります。今、ジャズのスタンダードといわれる多くの曲が、彼ら白人によって書かれていることを考えると、「ジャズは黒人が造った音楽だ」と短絡的にいうことは正確さを欠きます。
「温故知新」といいますが、若いミュージシャン達は、あらためて100年前のジャズの懐妊期の事などを研究し吟味し直し、そこから着想して、このところ行き場を見失っている感のあるジャズ・ジャンルに新風を吹き込んでもらいたい・・・これが、一老人の初夢でありました。
ルパンの私書箱〜from 田舎親父 (15)
 ルパン氏校正の自分の文章を活字で読み直す事に奇妙な喜びと期待を抱き始めている自分に気が付き、何やら名状し難い、あやふやな気分になったりもしています。然し、兎に角、私には大いなる励ましとなっており、改めて、有り難う。白状してしまうと、猟も釣りも私の重要部分を占める人生そのものではあるけれども、それ以上に文章を書く事は大切で、文章化することによってのみ、私の人生は完成するといった暮らしをして来ました。それ故、貴兄の配慮、心遣いは有り難いものです。現在も過去も、私には文学仲閧ニか友人等というものは身近には一人も居なかったし、居ない方が増しだとさへ思って来た。まぁ、私のようなド素人が言うべき事ではないかも知れないが、少なくとも私の書くものを書いたものとして、それは只の手紙であったのだけれども、“面白い”と言ってくれたのは、驚く無かれ、貴兄ただ一人です。実際、私の義弟やら兄など、自分では三文小説も読んだ事のない様な者らでさへ、私の書いたものを読んだ途端、一流の批評家に早変わりする。つまり、無理にでも面白い一行くらい捜してくれれば良いものを、その逆で徹底的なアラ捜しをする。私は此処数十年、物を書いているとか、書きたいなどという気持ちを抱いている事など、周囲にはひた隠しにして来た。一時、新聞や雑誌に随筆などを書いた事もあったけれど、それも身近な者らの酷評に耐えられず、書くのを止めてしまった。しかし、心中は常に文章への執着はあり、こっそり人に隠れて書いていました。それは、私には何でも文章にして表現してみないと事が見えて来ないという気持ちが常にあったからだ。嘘、誤魔化しに聞こえるかも知れないけれど、私には作家になりたいと思う気持ちは余り無く、せいぜい身近な親しい誰かに面白がって貰えるなら、それで充分という気しか無く、全てに於いてそうで、難しい評価、心ない評価にさへも耐えねばならぬプロへの強い意志は皆無でした。それは、今でもそうで、他の事柄についてもそうです。例えば、私の作るへら浮子は私考案の独特のもので、こちらのへら師共の閧ナは幻の・・・と称されている様だけれど、百本作っても、ごく親しい好意的な使用者にやるだけで、金など幾ら貰っても、そこらの連中には見せることさへお断りだ。玉枠、玉の柄、竿受などといった道具も同じく、三十年作り続け、材料から作り方まで全く市販品とは異なり、製作期間も一年以上と言った代物だけれども、一銭も貰った事はない。私は、それらを全く自分用に自分の気に入るように作ったのだから、人にどうこう言われたくないのです。ただ、私が好意を抱いている人々、私の愛する事の出来る人々には、釣りをするしないに関係なく気に入って貰いたい気持ちは正直言って非常に強い。だから、釣りに全く関心の無いのに、完成したての浮子を見て、「うわぁ、綺麗ですネェ。何ですかそれは?何に使うんですか?」等と聞くと、忽ち嬉しくなって、「何でしょうネェ。気に入ったら上げるよ。ほら・・・どれが良い?二三本持って行って良いよ。」等と云う事になる。それが半年がかりの入魂の一本でも、と言うより、そうであれば尚更そうなる。玉枠なども近所のオバチャンが回覧などを持って来た時、ふっと目を止めて「あら、その丸いの何?綺麗だワァ!壁に吊して中に色紙でも飾ると良さそうだネェ、ホント。」等と言ってくれると、もう我を忘れてしまう。「そう、じゃ〜どれが良い?あ、これ、良いよ。持って行って。」となる。私には解っている。その浮子の形、その玉枠の色こそ、私自身の何かである事が・・・。