2004.9
8月5日(木)〜6日(金) 2004 わたらせサマーフェスタ 2001年、故笈田敏夫、北村英治、西条孝之介、五十嵐明要、原田忠幸氏らキラ星の如き先輩諸氏を帯同した懐かしき同フェスタに原正夫バンドでの飛び入り出演を敢行!取り扱いがジョージ川口風に?なるはやむなしも何でも楽しんじゃう質ゆえ実にハッピーな二夜となりました。初日はクインテットで、Don't Be That WayとA列車、翌日はキャラバンをトリオでトリに?あいにく両日共途中、雨に見舞われましたが、皆さんぬかるんだ足元も厭わず、ステージ前に立った侭で楽しんで下さったのには感激!感謝の幕切れとなりました。オジサンにサインを求められ、美人歌手でも居たっけ?と一瞬後を振り向く一幕も・・・?愛弟子・西谷文雄も成長著しく、ハラ・ピアノ・スタジオの生徒さん達の演奏もスイングしてました。打ち上げはひたすら烏龍茶にて?深夜帰京。翌日は正午からレッスン後、写真の打ち合わせ、ミッドナイトジャムと盛り沢山な一日ではありました。写真は送られてきたケーブルテレビのビデオよりキャプチャしたもので〜す。
14(土)15(日) 松本英彦メモリアル!サマー・ジャズ フェスティバル vol.2   松本佳子夫人プロデュースにより多摩センター特設ステージにて開催。川嶋哲郎、竹内 直、片岡雄三、高松里美、市川秀男、吉田賢一、古野光昭、力武 誠と多種多彩な顔ぶれに加え、二日目は一部にスプラッシユ・スーパージャムにて競演する「マーク・アイ・オールスターズ」出演。永六輔さんのトークショーと、雨も吹き飛ばすエキサイティングな真夏の二夜と成ました。やはり、打ち上げは烏龍茶で乾杯!後、両日入らした、破茶目茶ジャムの縁の下担当のI氏夫妻が先行する、旧弟子I氏宅へ。30年程昔のビデオを多数鑑賞?笈田敏夫、松本英彦、鈴木章治さんらの若きお姿に涙し、襟を正して帰路に着きました、ハイ?
27日(金) 笈田敏夫・一周忌法要「思いで語りの会」 赤坂プリンスホテル・五色の間
 200名を超す参席者で大変華やかな会となりました。松本英彦さんの通夜以来の?阿川泰子嬢の様に何年ぶりかの会話が実現したY氏、M氏・・・実に懐かしく楽しい一時でした。入場、献花、着席後、開宴迄の間に映される37枚、思いで語りの接ぎ穂103枚のスライド製作は4回程の打合せで選別された200枚を超す写真のスキャンに始まり、横9m× 縦?のスクリーンに耐えられる様、2cm角の印刷写真?、痛みの激しい白黒写真、ピンの悪いカラー写真、枚数削減の為の登場人物合成等、一ヶ月近くも掛かりましたが、ご覧の様な出来栄えで大好評でした故、まずは目出度し!只、残念な事には下記会場へ向かう為に24枚目で退場。相当に面白かったらしい思いで語りを聞けなかったのは返す返すも残念でした。
8月27日(金) (株)マークアイ創立10周年記念パーティー アンティパスタ・ピーナツヴエンダー
 上記、松本英彦メモリアル・コンサート・二日目の一部にも出演して喝采を浴びた「マークアイ・オールスターズ」が所属する会社・・・と申しましても、バンマスのK氏が社長として率いる・・・逆?会社創立の節目パーティー!スライドによる10年史も実に楽しく、バンド同様・・・逆?活気に溢れる会社だな〜と実感しました。毎月主宰するジャムも回を追うごとに盛況で、今後がますます楽しみなバンド・・・いえ、エネルギーが一心同体の会社のお祝いでした。写真は7枚合成によるものです。
写真左下 ドラマー兼副社長・K氏/ソプラノサツクス・リーダー兼社長・K氏/歌手 故松本英彦夫人・佳子さん
読者のホ−ム・ページ (85) Dancing Lawyer
 
この夏はアテネオリンピック一色であった。この原稿を書いている時点でも、日本の金メダルは16個に迫ろうとしている。ハンマー投げの室伏が金メダルを取れば、16個になる。東京オリンピックと同じ数だ。今回のオリンピックは、日本選手の活躍がすごかったが、特に、女子選手の活躍は目を見張るものがある。参加選手の人数も女子選手が多いことからもわかる。東京オリンピックを知っている者としては、隔世の感がする。必ず、メダルを取ると言って、アテネに行った選手たちが本当に金メダルを取ったことも素晴らしい。「有言実行」だ。特に、柔道の谷 亮子選手やマラソンの野口みずきさんの強靱な精神力には頭が下がる。もちろん、男子の水泳、平泳ぎの二冠を達成した北島選手も素晴らしい。野球は長嶋監督が病床で応援していたが、銅メダルに終わって残念ではあったが、選手たちはシーズン中の大変な中で戦ったのであるから、仕方がないだろう。もし、イチローや松井、石井など大リーグで活躍している選手が参加していたら、金メダルを取っていたかも知れない。その他、体操・柔道・シンクロ・自転車・アーチエリィー等々、多くの選手が活躍した、近年まれに見るオリンピックであった。このような活躍を、是非、次回開催国の北京オリンピックでも見せて欲しいものである。オリンピックは「平和の祭典」と言われているが、この開催中もテロや戦争は続いている。なにやら矛盾を感じる。また、秋にはアメリカ大統領選挙もある。アメリカにも、もっと、マシな国策を再呈し、アメリカが1人勝ちの世界を見直してもらいたいものだ。オリンピックを見ていると痛切にそう感じる。世界には本当に多くの国があって、たとえ小国であっても、自分たちの国に誇りを持って、それぞれの国の文化や伝統を大切にしていることが良くわかる。各国の共存共栄こそ、大切である。もういい加減に、アメリカの価値観を押しつける世界は無しにしてもらいたいと思う今日この頃である。獲得メダル数に劣らず、今年は真夏日も多かったし、台風も多かった。被災者の皆さんはさぞかし大変なことでしょう。一日も早い復興を祈りつつ、やはり、思いつく曲はハービーの「The Eye of the Hurricane」だな〜?アメリカの台風と思って気も軽く、美味いバーボンを・・・これもアメリカか?・一瞬の静寂で後が怖いが、何時聞いても良い曲ですね。
52回   エロールあさかわ
 未成年者を犯罪から守るという意味で、警視庁防犯課では抜き打ち的に繁華街のパトロールを行っている。つい先週も其の様子がドキュメンタリーとして放映されている。渋谷センター街で三人四人と屯して喫煙している女子高校生と見受けられる女性グループを見付けると、私服の担当が素早く近付き、問いかけた。「君たち女子高校生に見えるけど何才ですか?」、「ハ〜イ私は十六才で〜す。この子は十五才で〜す。」と悪びれることなくニコニコと答えた。十五才と紹介された少女は缶ビールを片手にダンスでもするように身体を動かしている。「君たちの様な未成年者がタバコを喫ったり、お酒を飲んだりしてはイケナイことは知っているでしょう!」、「どうしてイケナイんですか?」と反発的な態度で不満を訴える少女に担当官はボソボソと説明し、法律で禁じられていることなども説明した。「私は自分の健康を害するほどタバコは喫わないし、ファッションみたいな感じで時々喫っているだけだもん。」。担当官とのやりとりが数分続いたが、最終的には逮捕することになると云う言葉が効を奏し、少女達三人は持っていたタバコを差し出し「今後は喫わない様にします。」と担当官に謝った。担当官は少女達の肩を優しく叩き、補導が出来たことに満足気げで、次の場所に移動して行った。この様な補導が本当に役立っているのだろうか。補導を受けた少女達はタバコを取り上げられたことに不服を漏らしながら早速、自販機で再びタバコを購入する筈である。形だけの補導の無意味さ、未成年者保護法の最高の必要性を感じながら防犯につながる確実な法律のない現代日本社会。未成年者や若年者による凶悪犯罪が多発する今日の社会情勢を真剣に考えるならば、未成年者に対する補導のあり方も徹底的に改めなければなるまい。「すいません!今後はやりません!」という言葉を聞くだけで未成年者に対する補導が出来たということになるのであろうが、未成年者の方が既に法律のマニュアルを熟知しており、補導担当官を満足させることも、裁判官の心証を良くする方法も心得ている。未成年者であるからというで刑罰に問えない日本の法律こそ早急に改めなければならないところに来ている。一連の凶悪犯罪の大部分が未成年者や若年者よるものであるという現実を直視し、法律の改正を行わない限り、日本沈没ならぬ、日本の国家消滅につながってしまう。
「ジャズ詩と実在の人物」       新 折人 #43
 前回書いた "BillBailey"で思い出したが、ジャズの詩には、時々実在の人物が登場する。
1920年から14年間の禁酒法時代の初期には、「(例え禁酒法があっても、アル・カポネが巾をきかせていても)シカゴは素晴らしいホーム・タウンだ」と唄う名曲 "Chicago"(1922)が出来た。この歌詞の中に〈♪ That town that Billy Sunday could not shut down〉(ビリイ・サンデイでもシカゴを潰せない)というくだりが出てくる。このビリイ・サンデイ(1863?1935)という人物は、元々「シカゴ・ホワイトソックス」で、シーズン95個の盗塁を記録し、快足プレイヤーとしてならした大リーガーであったが、その後何故か神がかってカリスマ的伝道者となり、多くの人から悪評をかった「禁酒運動」を主導した男である。
1929年暮れからの大不況の真最中でも、あえて明るさを求め "On the Sunny Side of the Street"(1930)が唄われた。この中には、〈♪ If I never have a cent, I'll be rich as Rockefeller. Gold dust at my feet,・・)(例え一セントがなくても、ロックフェラーの気分、足許に黄金のちりが舞い上がる・・)という歌詞が出てきて、大富豪で当時のアメリカン・ヒーローだったジョン・D・ロックフェラー(1839?1937)の名を読み込んでいる。他方、映画「カサブランカ」の主題歌として大ヒットした "As time goes by" は、元を正せば大不況の最中、1931年のミュージカル "Everybody Welcome" の主題歌として出来た。この曲の前唄(ヴァース)の中に、〈♪ We get a trifle weary Mr Einstein's Theory.〉(アインシュタインの理論にも少々うんざりしてしまう)というくだりがあり、物理学者アルバート・アインシュタイン(1879?1955)の名が出て来る。大不況で厭世感に捕らわれていた当時の人々は、「もしかして「時」をキー・ワードとするアインシュタインの相対性理論によって『タイム・マシン』が出来、古き良き時代に戻れるのではないか」と考えていた。しかし、過ぎ去って行く時を現実に戻って見てみると、「それも空しい」と唄ったのである。
アメリカのサーカスは18世紀末に始まったが、フィニアス・バーナム(1810?1891)とジェームズ・ベイリー(1847?1906)が、1881年に「バーナム・アンド・ベイリー・サーカス」(Barnum and Bailey Circus)を組織した。これを機にアメリカのサーカスは黄金期を迎えたというのが定説になっている。後に出来たスタンダード・ソングの "It's only a paper moon"(1932)の歌詞に、〈♪ It's a Barnum and Bailey world, just as phony as it can be・・〉というくだりが出て来る。二人の名を冠したサーカスをあしらったフレーズである。
古く1903年に「フォード・モーター社」が設立され、多くの黒人が南部からかき集められた。そのことを反映して、ブルース歌手のブラインド・ブレーク(1890?1933)が、「デトロイト・バウンド・ブルース」(Detroit Bound Blues)なる曲を唄った。それは、〈♪ I'm goin' to Detroit, get myself a good job, ・・up there in Mr. Ford's place, ・・When I start to makin' money, she don't need to come around・・〉といった調子で、「高給で雇ってくれる、デトロイトのフォード工場に行くぞ。金を稼ぐ為、彼女を捨ててでも」という黒人の気負いを代弁した歌であった。ここに出て来る自動車王ヘンリイ・フォード(1863?1947)は事業のため黒人を雇い、黒人にとってみれば救世主的存在だったが、元来コチコチの人種差別主義者で、後に黒人が創り出した「ジャズ」を嫌い「猿の音楽だ!」とまで言った。従って再びフォードの名前がジャズ詩に現れることはないだろう。
ルパンの私書箱〜from 田舎親父 (11)
  雉子の手負いを追跡、捕らえる事の出来る鳥猟犬は、それだけで名犬と云うに値する。雉子の逃走能力の真骨頂は、翼にではなく鹿や兎と同様、脚力にある。しかし、鹿や兎は藪や茂みを走る時、幾らか音を立てるが、雉子は全く音を立てず、草一本動かさず、牧草、大根の葉の間、茅場を走り抜ける。体重65キロの猪がたわわに実った稲田に逃げ込んだのを見届けた私と知人は、その棚田の一段上の畦に立ってチャンスを待った。狭い棚田で20坪もない。頭を垂れた稲穂は微風に揺れる外は、さわとも動かず、地に伏せたか潜ったか気配すらない。息詰まる数秒後、猪の姿は私の目前6メートルにあった。地から湧いた様に畦の上にあった。私が放ったスラグ弾近射の為、最も硬く、鎧と呼ばれる肩の骨(人間の肩胛骨に相当する)を貫き、幾杖かの鉛の破片となり、筋肉と硬く幾重にも重なった筋を貫き、その下の骨を破砕し、それらの骨片が期間を切断、衝撃が頸骨間接を断ち運動中枢神経を切断していた。巨大な猪ですら逃走に際しては音など立てづ、小枝さえ動かさない。全身を覆う荒く長い毛は冷暖房用ではなく、衝撃や摩擦を避け、音を立てない為のものと思われる。猫には口の周りにしかない髭が全身にある様なものである。雉子は羽毛がその役をするらしい。接触する物体を動かさない為のショック吸収、体臭を洩らさぬ為の臭気発散防禦、そして金属光沢は逆光や暗がりではあらゆる可視光線を乱反射させ殆ど黒に近く変化する。雄キジを発見するコツは、カラスの様に全身が真っ黒で、身体を横にせず、動き回らず、じっと此方を向き、棒杭か黒いビール瓶の様に立っているガラスの様な物体を捜せば良い。間違っても、美しい派手な色彩の姿など捜さぬ事である。確認するには、そのカラスのような物体から一旦首を巡らせ、再び眺めてみると良い。ほんの一秒かそこらの間に黒い物体は消滅している。それが雉子である。雄キジは深さ10pの凹みにも身を伏せる。20pの溝なら身を伏せた侭で、犬の追跡などものともしない俊足で逃走する。こういう手負いの雉子に犬を追いすがらせてはならない。犬は決して追いつく事が出来ず、其の間隔は瞬時に拡がっていく。未熟なハンターは逃げ切られる事を恐れ、慌てて遁走する雉子を狙って発砲する。地上に在っても40q/hで走っている的は移動標的である。鳥そのものを狙っては後を撃ってしまう。だが、犬に追われて走る雉子に向かって思わず発砲する様な射手は鳥そのものを狙う誤りを犯し、取り返しのつかない結果を招く。前後(最先端を飛ぶ散弾と最高端を飛ぶ散弾)の間隔は適正射程で3〜5メートルに達する。平面散開は70pの円内に全弾の60%が入る。この紡錘状の散弾群は鳥と犬の間に送り込まれる事になる。犬は鼻先から散弾幕の中に突っ込んで頭部から頸部に散弾を浴びる事になる。即死か重傷、助かる見込みは先ずない。こういうシーンの悲劇の主人公となって、人目も憚らず、ゴリラの様な男が涙を流すのを幾度か見てきた。手負いの雉子は犬に任せるか、自分で処理するか、でなければあきらめる事だ。さて、件の狐と雉子はどうなったか?狐は土手の最も低い所から上の段々畑にそっと這い上がり、畦の土の固まりの陰から辺りを窺った。雉子は10メートル程の処で悠々と餌を食んでいたが、小走りに藪に近い奥へと向かい、再び採餌を始めた。ゆっくりと嘴の裏側、顎の辺りを爪先で掻いたりしながら。狐も阿保ではなかった。もう身を隠す処はない。雉子は自分の存在に気付いている。一気に飛び掛かって捕らえられる距離まで接近する事は出来ない。野生動物は諦めも良い。狐はひらりと身を翻し、軽々と下の畑へと走り去った。ブドウの房などに未練たらしいのは、イソップの狐だけだ。本物の狐は真面目で根気強く、利口ですばしこく、全力を尽くし、諦めが良い。化かしたり、化けたりもしない。私は子供の頃からイソップ物語が大嫌いであった。あの寓話は教訓に満ちていると云われているが、私には子供に対する意地悪な訓戒に満ちていた。何よりも私の好きな動物達は、皆、馬鹿な人間に似ていた。私はウソップ物語と云っていた。私は真っ先にイソップのイジメに遭う子供であった事は間違いなく、物語を読む度に、何時も自分が責められている気がした。その精で性格の幾分かが歪んでしまった事は、この文からも推察することが出来るでしょう。大体、動物を擬人化する事が嫌いである。従って、シートンよりファーブルの方が好きである。シートンの動物は余りに人間に似ている。まだ、ジャック・ロンドンの方がましだ。ファーブルに動物記を書いて欲しかった。彼の視点は天の視点である。感情移入も擬人化もない。同じ擬人化でも、ミツバチ・マーヤに岡惚れするマグソコガネ君は良い。バラコガネと偽ってマーヤに言い寄るヒタムキさが何とも身につまされるではないか?私とて、日がな一日マグソを貪って居なくてはならぬ運命の下に生まれつき、或る日、ミツバチ・マーヤ嬢に出会って一目惚れすれは偽りたくなる。本気でバラコガネと思い込み、朝にはバラの花弁に付いた露を少しばかり、蕾の端を一寸だけ囓ると云ってしまいそうである。死んでもマグソコガネである等とは言うものか・・・。    以下次号