2004.
6月17日 午後0時45分 峰 純子さんご永眠 当日、オール・オブ・ミ−・クラブ出演中に知らが入り、思わず「お疲れ様・・・お見事でした。」と心底よりエールを贈りました。6月22日、23日、下目黒・羅漢会館での通夜、・告別式は純子さんを偲ぶ大勢の皆さんで溢れてました。高橋伸寿さんが弔辞の中で6月5日、ジヤズろう会コンサート“Forever〜笈田敏夫”での笈田さんとの楽しい思い出話と「嘘は罪」がテープで披露されました。ボスの想い出と多くの方の忍び泣きに包まれつつ、そのステージ・スピリットに改めて脱帽!初めてお会いしたのは、今は昔40年前、小西徹さんに杉原淳さんがドラムを探してると紹介され、高輪プリンス・ホテルへ伺った際、中牟礼貞則さんらと出演されてた純子さんが微笑みながら、淳さんは休みよと教えてくれました。以降、その微笑みはしっかりと記憶に刻まれ、齢重ねる程に自然な経年変化?会うごとに、お互い「変わらないね〜」な〜んて言い合ってましたので、式場に飾られたLPジャケットの微笑みにドキッ!!な〜んて可愛い・・・待てよ?メモリーの中の微笑みは更に遡る筈・・・3つ年下は当時、21〜2才? 皆さんもご経験がお有りでしョ? ・・・と、メモリーの書き替えに呻吟しつつのご焼香となりました。これも20年以上昔の話?松本英彦Qで岩手へのビータ。小生は翌日が早いので深夜便と化して帰京する事に。当時の小生は飛ばし屋でオマケに鼻なしワンボックス・カー!なのに、純子さんも帰ると助手席に!?ボーヤと変わり後部座席へと勧めるも、「私、こういう車慣れてるから平気よ」と小生の運転にも全く動じず、東京に着く迄、キャッキャッしてましたっけ?
心よりご冥福をお祈りします。
読者のホ−ム・ページ (83) Dancing Lawyer
 今回は手前みそになりますが、私が昨年の2月下旬以降、約1年3ヶ月かけて、担当した痴漢の刑事事件(西武新宿線の電車内で朝のラッシュ・アワー時間に、中2の女子学生のお尻を下着の上から触ったという条例違反事件です)についての報告をさせて下さい。幸い、本件では、この5月10日に無罪判決が下され、検察側も控訴せず、この無罪判決が確定しました。ホッとしました。判決当日は司法記者クラブで記者会見しましたし、翌日の各新聞やテレ朝の「スーパーモーニング」等でも報道されたので、ご覧になった読者もおられるでしょう。
 この事件は、被告人の隣にいた目撃者のOLの存在が大きかったのですが、事件当日には、この目撃者を駅員が放置した為、どこの誰かが判らず終い。被告人が起訴されてから、本件の支援者のご協力を得て目撃者捜しのビラを、事件があった西武新宿線「高田馬場」駅で5日間に亘り、約5000枚配布しました。そうしたら目撃者のOLが名乗り出て、法廷で証言して頂いたものです。極めて運がいい事件でした。こんな「奇跡的」なケースは、まず無いでしょう。無罪判決を下した東京地方裁判所の判決にも、この目撃証言が決定的に影響を及ぼしました。
さらには、某映画監督のボランチア的ご協力も得て、本件事件時の再現ビデオや、西武新宿線のラッシュ・アワー時の状況のビデオも証拠として提出しました。再現ビデオの撮影の為には、スタジオを借り、原寸大の電車の正確なモデルも作り、エキストラも約100人近く集め、撮影しました。さながら、私は映画監督になった気分を味わえました。お陰様で立派なビデオが出来ました。 映画監督は近い将来、本件を題材にした映画を製作予定ゆえ、取材の一環であり、今回は被告人や弁護人に費用負担はかけないとまで言って下さったのです。被告人も弁護団も払えるお金は到底ありませんから、お言葉に甘えました。まあ、映画が上映される事になったら、読者の皆さんにも監督が誰なのか、お判りになるでしょう。
 この様な多くの幸運に恵まれ、無罪判決を勝ち取る事が出来ました。正に「事実は小説よりも奇なり」。ここ迄の事をしないと無罪判決を勝ち取れないのが、我が国での刑事裁判の実態なのです。男性の方に言っておきますが、電車内等で痴漢に間違えられたとしても(男性なら、誰でも間違えられるのが恐いケースなのです)、絶対に駅事務所や交番に行ってはいけません。即刻「逮捕」されます。こちらの弁解は、一切聞く耳を持たないのが警察の実態です。被害者と称するその女性に名刺でも渡し、自分の氏名・連絡先等を教え、「私は逃げも隠れもしないから、後で連絡して来い。堂々と反論する。」と説明して、その場を去るべきです。最近の警察・検察等捜査機関の捜査能力は低下しています。くれぐれも、ご注意下さい。列車と云えば「A列車で行こう」で決まり?ニューヨークのサブウェイ対決(ヤンキース対メッツ)は、ゴジラ松井に満塁本塁打が出て最高!だったが、編集長好みな?ジョーヘンとドラム(グレゴリー・ハッチソン)とのデュオによるスリリングな演奏も最高!それを聴きながらのバーボン・・・これ又、最高!
50回   エロールあさかわ
 今回の小泉首相の訪朝と結果に対して拉致家族や支援団体は憤懣やるかたない様子で非難しているが、ある程度の評価が出来ると云う声もかなりある。支援団体や拉致家族を救う会などという団体が現れ、自分たちの思うような結果が出なかったことで小泉首相を無能呼ばわりしているが、何処か違っているように思えて仕方がない。一国の首相が国交のない北朝鮮に出向くにあたり、拉致家族問題のみを目的に行くわけにはいかない。米国を始めG7諸国の最大の懸案は北朝鮮の核廃絶であり、小泉首相の訪朝に際して其の意味で大きな期待が掛かっていた。しかし片寄ったメディアの煽動に押され、拉致問題に優先順位を置いたために国際的懸案を進めるには至らなかった。外交交渉は時間を掛けて慎重に臨むべきで、あれもこれもと一挙に解決出来るものではあるまい。拉致家族の子供達五名を連れ帰ったことは一つの成果であったし、生死不明の十名に関しても金総書記に再調査の約束をさせたことが大きな成果ではないか。小泉首相が最初に訪朝した時の会談中に、席を蹴って帰ろうとする場面もあったと云われるが、首相の忍耐のお陰で拉致家族の親達の帰国が叶ったのである。五名の子供達を連れ帰った小泉首相に対して「ご苦労様でした!」「有り難う御座いました!」の一言もなく不満ばかりを申し立てる姿には呆然とする。又、厳正中立的立場で論評すべきメディアが日和見的な報道で点数稼ぎに専念するのもポリシーがなさ過ぎる。北朝鮮との交渉の中で交渉用のカードを無駄に切ってしまったと云う人もいるが、決してそうではない。人道支援、食料援助、日朝国交正常化といった切り札は厳然と残っている。五人の子供達を連れ帰るにあたり、食料二十五万トンと一千相当の医薬品の援助を約束したと猛攻撃する支援団体もあるが、これは交渉用のカードにはあたらない。現在の北朝鮮側が望んでいるのは日朝国交正常化である。この最大のカードは拉致問題の全面解決と核廃絶の目途が立たない限りは決して切られることはない。G7を始め国連機関の総意として北朝鮮の核廃絶問題で一致しており、日本人家族拉致問題に終始する日本の世論は少なからず奇異に見えるだろう。まして、日本の首相たる小泉さんが拉致家族と支援団体に煽られて、あたふたする様では国際的信頼を失うことにもなる。
「フォスターの曲到来」 新 折人 #41
アメリカの歴史はそう長くないが、中でもアメリカ自前の音楽の歴史は新しい。アメリカにイギリス人の入植(ヴァージニアのジェームス・タウンに1607年)が始まってから現在迄、およそ400年の歴史のおよそ三分の二、初期の250年はもっぱらヨーロッパ・オリジンの音楽の流入時代が続いていた。新興国アメリカが音楽的に「ヨーロッパの揺り籠」から滑り出し、乳離れするには、好むと好まざるとに関わらず、相応の時間が必要だったのである。 ようやくアメリカがアメリカ人のソング・ライターの手になる「自前の音楽」を生み出す様になったのは、1850年前後のことであった。その功労者は何と言っても「アメリカの吟遊詩人」と云われたスティーヴン・コリンズ・フォスター(1826?1864)である。彼は既に13歳にして作曲を始め、1847年21歳の時「オー・スザンナ」でプロの作曲家として世に認められ、以降「草競馬」(1850)、「故郷の人々」(1851)、「懐かしきケンタッキーの我が家」(1853)、「金髪のジェニー」(1854)、「オールド・ブラック・ジョー」(1860)等の他、死の数日前に書かれた「夢路より」(1864)迄、美しいメロディの曲約190を残した。詩も自分で書いたものが多いが、いずれもデリケートな詩情と感傷、深い愛情と人間性に裏付けられている。特に白人のフォスターが多くの曲で表現した、黒人への同情と思い遣りについては注目に値する。又、彼の曲は、例えば「オー・スザンナ」や「草競馬」に見られる様に、黒人音楽の「シンコペーション」の影響を受けている。フォスターの曲は、後にビング・クロスビイ(1901?1977)や幾つかのビッグ・バンドが、ジャズの素材としてしばしば用いた。そのフォスターの曲を日本人として最初に記録に残した男がいる。ご存知ジョン万次郎(1827?1898)らと出漁中、1841(天保12)年嵐で遭難、アメリカの捕鯨船に助けられてハワイのホノルルに渡り、その地で9年間滞在した、土佐は宇佐の漁師(森田)伝蔵(1804?1863)である。彼は万次郎と連れ立って1851(嘉永4)年鹿児島に帰り着き、薩摩藩の取り調べを受けた。そして時の藩主島津斉彬(1809?1858)に漂流記録を提出したが、その中に、アメリカで流行している歌の歌詞が、「ウエスバンチヨヲンマイニイ」であったと書いている。これはもとより、フォスターの初期の傑作「おおスザンナ」の一節、〈♪ ・・with my banjo on my knee.〉を、聞いたままの片仮名書きにしたものである。フォスターの作曲から僅か4年後のことであった。但し、伝蔵がこのメロディを口ずさんだり、人前で披露したりしたかどうかは定かでない。フォスターのメロディを日本に紹介したのは、黒船を率いて1853(嘉永6)年と翌年、二度に渡って江戸湾にやって来たマシュー・カルプレイス・ペリー(1794?1858)であった。彼は伴った軍楽隊に当時のアメリカ音楽を演奏させた。特に二度目の来訪の時には、開国交渉の幕府主席代表、林大学頭復斎(1800?1859)以下5名を、旗艦とした「ポウハ タン号」に招き、フォスターの音楽を含む「ミンストレル・ショウ」で歓待した。その時の様子は、「宴会後、黒人に模したる米人、諧謔の踏舞あり、流石厳粛の(林)大学頭も破顔一笑す。」と書き残されている。言葉は分からずとも、よほど面白かったのだろう。当時アメリカ本国では、「ミンストレル・ショー」が全盛期にあり、そこではフォスターの曲が盛んに使われていた。ペリーはその雰囲気の一端を日本に紹介したのである。 なおペリー来訪余聞である。一度目の来訪の直後、幕府は再びやって来るであろう黒船の攻撃に備え、江戸防御のため、 伊豆韮山の代官江川太郎左衛門(1801?1855)を海防掛に登用し、急遽西洋式の砲術演習を行わせ、更に江戸湾に砲台を置くため、一番から六番までの「お台場」(四番は未完成)を建設させた。今「お台場」でデートを楽しみ、ジャズ・ライブに立ち寄る若者達は、そこがこうした目的で出来たなどとは、知る由もない。

ルパンの私書箱〜from 田舎親父 (9)
  「罰とは、お前らみたいな勘違いをしている連中に与えられる一番良い物だ」と云ったかと思うと、一番近い奴に吹っ飛ぶ様な平手打ちが飛ぶ。目付きを変えた奴には猛烈なパンチが。反抗は命取りになる。「此処で罰というのは、こんなものだ。体罰という言葉位は知ってるだろ。他に罰はないから安心しろ。体罰とは体で覚えねばならん、だから体罰と云う。分かったら返事しろ。私は黙って見てるだけ。教官が私に尋ねる、「先生、体罰の説明は良かったですか?」。真剣そのものだから、いい加減な返事は出来ない。先生と呼ばれるのが薄気味悪く、つい返事をしてしまう。「ハイ、彼等も良く分かったのでは・・・」。教官といってもホンの20年前は生徒達と余り変わらぬか、それ以上の経験の持主ばかり。痕跡が身体のあちこちに刻まれている。指がない、耳が片方ない。ある方としては頬疵、背中や頭の傷、最も多いのは遠山の金さん風から、龍に絡まれる、蜘蛛にしがみつかれる、まるでコンクールの様な刺青!時には孫みたいな生徒に同情したくなるが、教官に云わせると最も良くないそうで、なまじな優しさは彼等を弱くし、その弱気が反抗心やヒネクレを生むと云う。道を踏み外し掛かるとか、人生に迷い始めた若者の教育は、必死の思いで更正した経験の持主に任せるのが一番なのかも。彼等を見ているとそんな気がする。私の処へ英語の勉強に来る中・高生達は余りにも恵まれた甘ちゃんばかり。経済的、家庭環境、親の社会的立場や地位、本人の資質、能力に於いても何ら不足のない生徒達。その充足が情熱や意欲を失わせている様で物足りない。「自分なりに出来れば・・・」等と云うのを聞くと情けなくなる。射撃や釣り、猟を習いに来る奴らにもフヤケタのが居て、自分に合った猟、自分に合った射撃、自分に合った釣り、とガキめいた事を言い出す。超ベテランならいざ知らず、十年やそこらの経験で、しかも日曜ハンター、日曜釣師が云う。自分に合った勉強が一番等と何処の阿保がガキ共に吹き込むのか、小学生でもそういうのが居て困る。私は「自分に合った猟はない。獲物と猟具に合った猟しか。貴方に合わせて生きて鹿や猪は居ない。貴方に合わせて作られた銃も弾もない。銃の性質、弾の特性に貴方が合わせねば命中しない。獲物の動きに貴方が撃ち方を合わせねば、獲物はない」と云う。自分に合ったへら鮒の釣り方等ない。へら鮒の習性に貴方が合わせる、それが聞けぬなら勝手にしろと云う事だ。何故、猟など始めたいの?と聞くと、好きだからと来る。やってもないのに?と問うと、自然が好きだから、鳥や獣が好きだから、銃が好きだから、といった答えが大半で、その場合は指導を断る。好きだからが気に入らない。本気でやれば直ぐ嫌いになる。一年目は一発も撃てない。獲物を発見することすら出来ない。一発も当たらない。たまにはビギナーズ・ラックという奴もあるが、それはラックじゃなくてバッド・ラック・・・不運。初めてのスロットやルーレットで当てたばかりに一財産をフイにする。それでも始めたい?山はきついよ?冬は寒い、獲物は居ない、それでも?何の為?どうせ、銃砲店、猟友会、射撃協会辺りの紹介で、なるべく簡単に獲物や犬を手に入れたいと思っているのが、殊勝に体裁を繕ってるだけと思っているので、そういう言い草になる。そういう手合いに何度も苦く嫌な思い、危ない目に遭った。1ヶ月は弟子、3ケ月目は猟友、1年経つとライバル、3年も経つと猟場荒らしの盗人。注意でもすれば開き直り強盗めく。いつの間にか弟子の二人も連れ得意顔して歩いている。少年院帰りの若者を相手にしてる方が余程ましだ。どうやら、私は人生の失敗者、敗北者らしく、挫折や悩み等を余り経験していない者とはソリが合わないらしい。恥ずかしい話しが、この年になってすら、自己嫌悪、劣等感、挫折感、敗北感に嘖まれる。60才のガキ!こそ、私に相応しい名称?頼まれれば断れない性分なのに振り回されると、親も師も神さえも、関係なく逆らう。どうやら、叩き直されなくてはならないのは、私ではと自覚し始めている。何と遅蒔きなのだろう。此処で子供の頃の話しを一つ。私の家では父、祖父は特別な存在で、彼等が家にいる時は呼吸をするのにも気を遣わねばならず、大声を出す、走り回る、勝手に顔を出す等は厳禁。気配さえ消している方が安全で、子供には子供の世界が等と教育者や評論家が云うのを聞けば、海軍軍人であった祖父など軍刀を抜いたかも?子供は只の未熟な大人に過ぎず、それ以外の何者でもなかった。子供の頃から最大限の努力をして大人の社会に参加する事を強いられていたのだと思う。しかし、それでも、私と妹、兄はそれぞれ全く異なる部分を露わにして来ている。個性というものは、そう易々と環境や状況等の外圧によって圧し潰されたりはしないものではないか。銃と射撃、猟について云うならば、私は意図して師のコピーたらんと欲し、徹底的に努力した。同じ銃、フォームは勿論、服装から帽子の被り方迄、そっくり真似てみた。しかし30年も経つと、射撃フォーム、猟法、あらゆる処ろが師とは似ても似つかぬものになっている。それでも私と師を知る者は師弟である事を見破る。私は、私になったのだが、やはり何処かは受け継いでるのだ。私が若し貴兄のドラム教室に入門するとするならば、自身に云うだろう。「上手くなりたいなら、笑い方、歩き方、クシャミの仕方まで真似をしろ。30年経っても全く同じでない処があれば、その分が先生とお前の個性の違いというもんだ」。私は良い師にはなれそうにもないが、良い師は銃と射撃、猟で持つ事が出来た。私の人生の最も良い部分として、それを大切にしている。貴兄のドラム教室でも、私の様な幸せな生徒が沢山誕生する事を願ってます。次の便りでは、その師の事を書こう。   以下次号