2004.
笈田敏夫ライブラリー完成!(仮称)
 一面にもありました様にボスの足跡とも云える、168曲のパート譜のリストがどうやら完成しました。楽譜袋、譜面の補修(なるべく残したいが痛みの激しいのはやむなく・・・、譜面からポロリと剥がれる補修セロテープを張り直して・・)、整理にも手間取りましたが、それ以上に考え込んだのはkeyでした。フラット5つ、シャープ3つ・・・でもあるまいしと、小谷(p)君の協力を仰ぐべくメールにエクセルで作成したリストを添付して送ると、エクセルは使ってない・・・!?!ウ〜ン・・・で、思い出した窮余の一策!ack-ack'のホームペジの片隅に?アップロードして(ポスターや写真の修整結果の確認に良く使用している)、修正点をメールで送り返して貰うことの繰り返して、何とか完成にこぎ着けました。後進の皆さんのお役に立つことこそがボスの喜びであると想いますので、多くの皆さんのご活用を願ってやみません。今後の管理は育子夫人がなさりますが、お問い合わせ先、その他は決定次第、お知らせ致しますが、ack-ack'のホームペジが一番早いかも・・・?因みに、リストは既にアップロード済みです。Top−Forever−Livrary・・・でご覧になれます。

ファラオ・サンダース! 2月29日のブルーノート公演にご招待を受けて喜び勇んで出掛けました。ファラオは期待に違わず素晴らしいプレイを聞かせ、見せてくれましたねぇ〜。ラヴィ・コルトレーンを加えたクインテットで、Ole、Naima と小生好みのナンバーを、小生好みの音色と、小生好みのスタイルで・・・思わず、同行した大森 明君に「本当はこんなのが好きなんだよね〜!」なんてテーブル越しに自白?した位ら・・・小生のジャズ人生ともぴったりシンクロした世界(ファラオが2歳上)は、いゃ〜堪りませんでした。2曲とクロージングテーマを含め、1時間以上の演奏でしたが、ピアノ・ソロ以降は全く今風なスタイルのバンドになっちゃう感は否めませんでしたが、二つバンドを聞けたと想えば、それもまた良しとして、ラヴイさんはどんどん親父に似て来たね・・・マっ、人様のことは云えないけど?その割りに、何回聞いても印象が薄いのは何故なんだろう。翌日、ドラムの生徒のOさんに再びご招待を受けただが、当紙編集他に追われっぱなしで伺えなかったのが些か残念!Oさんも小生と同世代ゆえ多分・・・元気なエルヴィンが居ればなぁ〜と想うのでは?そうそう、ご招待主のKさんもソプラノサックスをプレイなさるり、一度ライブで拝聴致しましたが、オープニングが「キラー・ジョー」とレパートリーも中々幅広く多彩で、玄人はだしのプレイヤーなのです。
ご町内、光琳禅寺! 最近、新聞を読みに行くようになったスナックの窓越しに見える同寺の広い駐車場を、お彼岸も過ぎたのに夕方暗くなるまで行き来する人が絶えない。信心深い老若男女の多いことと感心していたのだが、先日スナックからの帰りに駐車場をよぎり山門を潜って見たら何と皆さんショートタイム花見客だったのです。狭い境内で飲食は出来ず立って見るだけなのですが、それに値する古木の桜の枝振りと禅寺の風情がなかなかのものなのです。白金に住み着いて15〜6年になるが、遠目の塀越しに綺麗な桜だな〜、程度でしか眺めてませんでした。何で今頃になって問を潜ったのか・・・やはり、年のせい・・・?
読者のホ−ム・ページ (80)  よっぱライフプランナー
  世の中、焼酎ブームである。ワインや日本酒がオシャレで都会派のライフスタイルに受け入れられてきた傍ら、安い、臭い、ダサい酒として長い間、地元のみで消費されるだけの地味な酒に過ぎなかった。それが今や通好みだけでなく若者や女性にも受け入れられ、焼酎専門店は連日老若男女で賑わっているという。昭和28年、酒税法が制定され焼酎は甲類と乙類とに区分された。甲類とは連続して蒸留を繰り返した純度の高いアルコールを水で36度未満に薄めて作られ、無味無臭に近く、乙類は1回だけ蒸留したアルコール分45度以上のもので、原料の香りや味が豊かに残るため本格焼酎とも呼ばれている。現在のブームは、乙類の中でも最も匂いが強い芋焼酎が中心となっている様だ。江戸時代、米の栽培にあまり適さなかった薩摩では、代わりに黍や稗、粟などの雑穀類から焼酎を作る様になり、最も重宝されたのが薩摩芋であった。薩摩芋は台風に強く、やせた土壌のシラス台地に適性を持ち、南国の強い日差しを好む、薩摩にはまさにピッタリの作物だった。芋焼酎は1700年代中頃に誕生したと考えられている。翌日に残りにくい、低カロリー、血液をサラサラにするといった健康パワーを持つ焼酎も魅力的だが、蒸留酒といえば、やはりバーボンである。アメリカにウイスキーを蒸留し飲むという文化をもたらしたのは、スコットランドやアイルランド系の移民達だという。彼らはヴァージニア等に住み着いたが、このヴァージニアのかなりの部分がバーボンウイスキーの故郷になる。最初にバーボンを作った一人は、1785年に今のジョージタウンに移り住んだエライジャ・クレイグ牧師だといわれている。彼もスコットランドからの移民の子で、酒の蒸留を手掛ける様になり、偶然、内側が焼けた樽で寝かしたウイスキーが、香りが良くルビー色の美酒になる事を発見した。1789年の事であるという。私が好んで飲むバーボンに「フォア・ローゼス」があるが、これにはとてもロマンチックな話がある。1800年代、ケンタッキー州のポール・ジョーンズ父子が作り出したのだが、息子がかねてから愛していた女性に思いを打ち明け、結婚を申し込んだ。すると彼女は「お返事は、この次の舞踏会の夜に致します。イエスの時はドレスの胸に4つの薔薇をつけてきますわ」と言った。当日、ジョーンズの前に現れた彼女の胸には4つの薔薇が輝いていた。晴れて式を挙げた数年後、とびきりうまいウイスキーが出来上がり、「フォア・ローゼス」と名付けられた。何ともロマンチックな話である。他にも諸説あるらしく、真相は未だ謎のままだそうだ。いや、真相などどうでも良い。古き時代のアメリカに思いを馳せる。目の前のボトルには、4つの薔薇。グラスには氷とルビー色の液体。そして、ウイントン・マルサリスのバラード“Do You Know What It Means To Miss New Orleanes”〜焼酎風味?に云えば「懐かしのニューオリンズ」。心地良い音に身を任せながら夜は更けて行く。やはり、このシチュエーションに芋焼酎は合わないよなぁ〜!
47    エロールあさかわ
 女子中・高生の援交問題が取り沙汰されて久しいが、援交と同時にドラッグの常用が平行して蔓延している。ドラッグを買う為の金を稼ぐのに援交に拍車が掛かるのは当然であろうが、今まで援交をした事のないクラスの友達にまで援交を勧めたり強要したりする事も増えている。友達に男性を紹介し、客となった男性と友達の両方から紹介料を取ると云う「ヤリ手婆々」顔負けの手段まで講ずる少女も居るのである。援交を行う少女達は制服姿で客と会い、高校生であることをアピールした後で駅のロッカーに準備してある私服に着替えてホテルに向かうのである。ホテルに向かう前にドラッグを服用して、客の男性にもドラッグを売りつけては快感の増幅を計るというのだ。此の様な援交やドラッグ売買を取り締る為に当局も懸命になっているのだが取り締まり方法がなく、全国的な蔓延の傾向を示している。此の様な少女達にも彼氏とかボーイフレンドと思しき男性が何人か居るらしく、背広や時計を買ってやったり遊興費を貢いだりしているらしい。その彼氏やボーイフレンドの中にはギャングをやったりオヤジ狩りをやったり、援交少女を風俗店に売り込んだりする者もいると云うが、自分に対して優しくしてくれれば良いと云うのである。風俗店で働くには年齢を示す身分証明書が必要となる場合もあるが、保険証の偽造で間に合わせる。許せないのは援交仲間を増やす為にクラスの女友達を自分のアパートに誘い、自分の彼氏を含む数人の男達に輪姦させた揚げ句、口封じの為にビデオに収録したと云う事件である。首謀者の少女と彼氏はこの方法で援交仲間を増やし、ネットを利用して客を集めて援交料のピンハネをしていたと云うのである。又、口封じ用のビデオは業者に売り込むという悪辣さである。輪姦された少女は十数回援交を強要されたが、余りの悪辣さに耐えられず訴え出た為に其のグループの12人が逮捕されたが、これはあくまで氷山の一角に過ぎず、援交とドラッグの蔓延は広がっている。一部の少年少女の問題だと云う者もいるが、「腐ったリンゴは他のリンゴも腐らせる」と云うことわざもある。日本の次代を担うべき十代の若者達の間で此の様な事実が有る事を我々も教育者も政治家も真剣に考えるべきであろう。此の様な問題を未然に防ぐには幼児期に於ける家庭教育が一番大切である事にも気付くべきである。 
「捧げるは愛のみ」余談       新 折人 #38
 1928年に「お金がなくて何も買って上げられない」との意味を込めた名曲「捧げるは愛のみ」[I can't give you anything but love]が出来た。ニューヨークの老舗宝石店「ティファニー」(Tiffany)のショー・ウインドの前でアベックの男性が、飾ってある高級品を欲しそうに見ている連れの彼女に向かって囁いている言葉にヒントを得て作られたという。このなさけないような光景をテーマにした曲が出来たのは大不況の前年であったが、あらかじめ予知したかのように大不況に遭遇して共感をよび、大ヒットした。景気が回復した1936年に出来た、「天からお金が降ってくる」という楽天的な「黄金の雨」(Pennies from Heaven)とは対象的な曲である。しかし両曲とも、偶然のなせる業かコード進行と小節数が同じで、それぞれスタンダードとして欠かせぬ曲になっている。
「捧げるは愛のみ」の舞台になった「ティファニー」は、1837年にチャールス・ティファニー(1812〜1902)が、わずか1,000ドルの資本でブロードウエイに小間物文具店を開き、やがて宝石加工を始めて、世界有数の貴金属宝飾店となった店である。この店はまた、古く1845年には一小売り店として全米で始めて「カタログ」を出して、この世界に先駆けたりもした。ついでに連想的に思い出すと、「カタログ」商売を前進させた「メール・オーダー・ビジネス」の世界では、なんといっても1886年にリチャード・シアーズ(1863〜1914)が創業した「シアーズ・ローバック」(Sears Roebuck)が有名だ。愉快な話がある。ある時モンタナ州のカウボーイが、冗談半分で「シアーズ」に、花嫁をメール・オーダーした。すると何日か経って、本当に花嫁が届いた。実はその手紙を読んだ女店員がシアーズを辞めて、自分で名乗りをあげてやって来たのだという。もてないことを嘆く若者よ、ためしに「三越」にメール・オーダーしてみてはどうだろう。
 「捧げるは愛のみ」の歌詞には「ティファニー」は出て来ないが、“Diamond bracelet Woolworth doesn't sell" (ダイヤモンドのブレスレットはウールワースには売っていない)というくだりが出てくる。当時高級店「ティファニー」と違って、庶民でも利用出来る店として人気があった店「ウールワース」(Woolworth)の名を折り込んで歌っているのである。「ウールワース」はフランク・ウールワース(1852〜1919)が1879年に、「ファイブ・アンド・テン」つまり5セントと10セントの安売り商品を売る店として開いた。いってみれば「100円ショップ」である。そして瞬く間に急成長し、1913年には「ティファニー」を差し置いて、マンハッタンに60階、242メートルの、尖塔を持つネオ・ゴシック様式の超高層、「ウールワース・ビル」を建ててしまった。ここは、その後16年間世界一の高さを誇った。フランク・ウールワースは、この建設に要した1,350万ドルをポンとキャッシュで支払ったという。日本の「高島屋」は、ウールワースの成功を見て、その10セント商売にあやかろうと、遅まきながら1931年(昭和6年)に「10銭均一」商売を始めた。今この商法が見直されて「100円ショップ」が隆盛を極めている。なんでもアメリカの真似をするのは、今に始まった事ではない。ところで、この「ウールワース」は、初期のポピュラー音楽やジャズの普及に大変な貢献をしたことは余り知られていないかもしれない。つまり、1900年代初頭から、各地の店にピアニストを置いて、当時のニューヨークの楽譜出版街「ティン・パン・アリー」の各社と提携し、そこに所属していたアーヴィング・バーリンやジェローム・カーン、あるいはジョージ・ガーシュインの楽譜の売り込みとその音楽の普及を図ったのである。
  こういう話をしていると、今夜あたり「歌えるジャズの店」を徘徊して、誰か素敵な女性ヴォーカルを捜し出し、ミュージシャンとお客には迷惑だろうが、「捧げるは愛のみ」と「黄金の雨」を、同時進行でデュエットし、ついでに景気回復を祈りたくなる。。 
ルパンの私書箱〜from 田舎親父 (6)
 彼の通い慣れた径の小石をひっくり返しておく。これだけで異変に気付き別の径を取る。それを予測して彼が一度も辿った事のない方へ誘導する。猪はより暗い方へと逃げる習性がある。風下になる暗い位置に体にかかる雨音や雫が異変を察知させぬ様、氷雨が雑木林の小枝越しに降り注ぐ中、苔の生えた古い切株になったつもりで待つ。切株は余り呼吸もしないだろうから息もなるべくしない。雫が時折、首筋から背中へ這入り込むが反応してはならない。帽子や猟服も濡れ切ってるせいで、降り掛かる雨音も、大きな雫が当たる音も、腐食し掛かった落ち葉同様の音しかしない。死体になったつもりで全神経を解き放つ。ナラの巨木の根元に骨盤を当て左膝は地面に、右膝は立てておく。銃は水平に近く構え、あの暗がり、此方の岩の間、向こうの灌木の陰、あの杉と杉の間と云った具合に、眼の焦点を合わせておく。目を閉じ、開いた瞬間に目の焦点が25mの位置の物体を捕らえる様に眼筋を調整しておく。この距離ならば獲物の急所を見損なう事はない。目蓋を落とし、短くはなったが、未だ幾らか残っているマツゲの間から、小雨にけぶる森の中の薄暗い眺めをボンヤリと映して待つ。立木のせいで風が回るのが気になる。冷気が右から左から、そして正面からと方向を変えて頬に当たる。銃のオイルは完全に抜き取ってヌタ場の泥水を塗りたくり、髪は洗いっぱなし、体臭は息だけだろう。体臭は薄い方だし、この年だ、もう男の匂い等残っているものか!猪は異様に鼻が利く生き物だ。私はそっと左手を銃の先台から抜き出し、鼻と口を覆ってみる。深く静かに息を吐き、再び静かに深く吸い込む。濡れた皮の匂いに混じる煙草の香り・・・何だ、こいつは。途端に煙草が吸いたくなる。煙草とライターは1kmも離れた車の中に置いてきた。猪はガキを抱いた異常潔癖症ママみたいな嫌煙家だ。雨は降りしきり体を冷やし始めている。頬や首筋から湯気が立ったら危ない。雨や滴が枝を打ち濡れた落ち葉を打つ音が大気を震わせ続けている・・・静かだ。目を閉じていても空の透けた処、樹木の密生した処、岩や石、笹や灌木の在り処を知る事が出来る。冷たいが最高の雨だ。雨音のお陰で猪の足音は聞き逃さないで済む。右前方、空を遮るナラの小枝の網目が最も薄い辺りで、霞んだ雨音が一瞬、空白となる。オーケストラの演奏中、一瞬よぎる微かな異音の様だ。だが、それは異音に紛れもない。来た!右から左へ動いている。仕掛けに乗った。彼は罠に嵌りつつある。左前方20mのヒサカキの茂みの間の暗がりを眺める。根っこの白いカビの生えた瘤が見える。よし、出て来るのは、あの石の最も暗い処からだろう。そこから右へ走る。この距離なら必ず感づかれる。撃つなら、立ち停まって、走る決心をする前か?それとも走ってからか?猪は暗がりから明るい処へ出る前に必ず立ち停まって辺りを窺う。明るければチャンスなのだが、この暗さでは眉間、或いは前趾付根の間は無理だ。眉間以外に狙点はない。横を向けば耳の付根だが・・・暗い。ヒサカキを打つ雨音が変わり、音が曇った。猪はそこにいる。私は不思議にずっと以前の、こうした場面を想い浮かべている。20年も前なら心臓は全身を激しく打ち、喉から飛び出しそうになって窒息しかかったものだが、今はじっと警戒しつつヒサカキの茂みに佇む猪に想いをこらしていると、得体の知れぬ想いが胸の辺りを浸して来る。走った!照星が追いすがら脇腹をかすめ、前趾の付根を過ぎる一瞬、私は肩に衝撃を感じ、銃声を遙か遠いものの様に聞く。首をのけぞらせ、鼻と口から激しく血泡を吹き出し、四肢を宙に蹴り上げ、落ち葉をかき乱し、もがいている猪を見下ろしながら、私の脳裏の影像は、まだつい数秒前のものだ。狙点の前趾付根に浮かび上がった、黒い穴、そして見えない壁に激突したかの様に鼻先から崩れ落ちる生き物。遊底から漂ってくる無煙火薬の燃焼後の匂いで我に帰る。凡てが夢の中で起こった事の様だ。数週間に及ぶ追跡、雨の中での2時間を超す待機、射撃、そして、足元で息絶えていくもの。そして今は意欲も情熱も、猟欲さへも残ってない。歓喜?そんなものは何処にもない。只、精根尽き果てた空虚さと、そこへ忍び込んでくる馴染みとなった感情だけだ。そいつは様々の好ましからぬ感情、悲しみ、悔恨、不安、焦燥、その他を絵の具の筆洗いのバケツの中に溶かし込み、一緒くたにかき混ぜた様な代物だ。2発の残弾を抜く。遊底の上がる音が鈍い。空ケースは私が待っていたナラの木の根元から右2mに落ちている。異様に鮮明な黄橙のケースはプラスティクの光沢を放っている。何処か別の宇宙から落下した物体の様だ     以下次号