2004.12
 ack−ack’通信
11月21日(日) おめでとう!石井 真君&美和さん
 小生のライブで皆様もお馴染み、真君と美和さんの晴れの挙式に参席。金山正浩、福井五十雄、唐木洋介氏らと披露宴にて演奏。誕生後、最初に抱かせて貰った他人の身!?としては誠に感無量でした。スピーチにもそのくだりを交え、真君の音楽仲間を始め皆さんに大受けでした。Song For My Father(and Mother)を我々と共演!その熱演を御両親への感謝の辞とするなど・・・式から披露宴まで音に溢れた、温かい粋な結婚式でした。早くも29日(土)に、夜勤(IBMより癌センターへ派遣勤務中)帰りですとラッパ持参で?ジャムに寄ってくれて嬉しい限り!「何かの時??は何時でも言って下さい 」には涙さえ出ます・・・?!
頼りにしてまっせ〜?末永くお幸せに!
月  彩雲11型 9月 零戦52甲型
2005年 海軍航空機カレンダー(国書刊行会) ショウリ田中氏の航空機カレンダー制作に参加3年目。海原会に続き、国書刊行会も完成!書店にて購入可能で〜す。今年は、左の国書刊行会版は表紙&9月零戦(開聞岳)、5月彩雲(硫黄島)、海原会版は3月震洋、7月回天、12月零式三座観測機を担当。震洋は都内某神社に陳列されている金色のモデル?をガラス越しに撮影、パンフに基づき彩色。合成した白波と海面に進水?させた労作。当方にも数部御座います。ご希望のお方はご連絡を!
         12月 零式観測機                     7月 回天                        3月 震洋
読者のホ−ム・ページ (88) よっぱライフプランナー
 先日、お客様のご子息の結婚披露宴に招待して頂き、お台場のホテルに出掛けた。結婚披露宴に出席するのは久しぶりである。最近の披露宴の流れなのか、新郎新婦はもとより来賓の方も若いためなのか、挨拶も短く、ピアノ演奏の中ゆったりと食事を楽しめ、非常にいい披露宴だった。お色直しの前にキャンドルサービスがあり、招待客ひとりひとりにプチキャンドルが配られ、新婦のお父様が江戸消防記念会に所属していることもあり、お色直し後は消防団と一緒に木遣り歌で入場という凝った趣向でした。ack-ack'の演奏があれば、もっと最高だったのに。
 結婚式といえば、最近は「ハウスウェディング」がブームらしい。家を一軒貸し切り、そこを二人の思うとおりにプロデュースし、オリジナルの結婚式を作り上げる。起業してハウスウェディングを始めたのは、株式会社テイクアンドギヴ・ニーズの野尻佳孝社長。明治大学でラグビーに没頭し、卒業後は損害保険会社に勤めるが、その間に「世の中に安定的にうまくいくビジネスは何か」と独自に研究を続けた末に最終的な候補に残ったのが、冠婚葬祭。損害保険会社を辞め、ウェディングプロデュースの会社に勤めて具体的なノウハウを吸収し、友人と二人で26歳のときに、3年後の上場を目指し会社を設立した。2001年12月にはナスダック・ジャパン史上最年少となる20代で上場を果たした。ガーデンからフロア、そして化粧室まで。緑溢れるガーデンでの挙式、プールサイドでのシャンパンの乾杯。自分の家で大切なゲストを招いて開く結婚式のように、時間と空間の全てを独占できるという。そして、一流のレストランで活躍していたシェフたちが、愛情込めた料理をつくる。さらに、あの秋元康氏がウェディングプロデューサーとして参加し、著名人によるオリジナルビデオメッセージや歌手・司会の派遣等。まさに、自分たちだけの結婚式が作れるようである。ただ、それなりに値段も張る。晩婚化・少子化の流れの中で、ウェディング業界も、独自の特色を出して、生き残りを掛けて様々な仕掛けをしてくるのであろう。
 あと20年もすれば超高齢社会。その時には、親が子供に掛けるお金が増え、さらにオリジナルで高価な結婚式が出現しているかも知れない。一方で、今もそうだが、結婚してからの生活にお金を掛けた方がいいと考え、結婚式は質素にと「地味婚」のカップルが増え、両極化が進んでいるのではないかと思う。
今夜は、若いカップルと未来のカップルに乾杯するとしよう。こんなときは、やはりマイルスの名盤「いつか王子様が〜Someday My Prince Will Come」でピッタシ・・・これって、決まりすぎ?以前に聞いたack-ack'3の演奏も良かったなぁ〜!
54回   エロールあさかわ
  「民百姓は生かさず殺さず」という言葉があったが、現在の政治のあり方を見ていると、此の江戸時代以前の政治論理そのまゝを再現している様に思える。戦後の復興期には一般庶民の生活向上を真剣に考え、実践に取り組んだ官僚や政治家も大勢いた。ところが昭和50年代から平成に入るとその政治形態は大きく変化してしまった。現在の官僚や政治家達の多くが親の七光りと地盤看板、カバンの力によって成り上がった世襲族によって占められているからだ。勿論、官僚や政治家になる為に専門的な勉強をし、それなりの政治論理は学んだに違いないが、それは知識として学んだもので、政治マニュアルを学んだに過ぎない。この様な世襲議員達に果たして真の為政能力があるのか。科学文明が著しく発達した今日、一般庶民の意識も社会情勢も変わった我が国、明治維新の政治倫理を基盤とした政治マニュアルを押しつけることにも、かなりの無理がある。私は以前の号で現在の北朝鮮は日本の江戸時代に類似していると書いた記憶があるが、現在の日本こそ江戸時代に戻った様に思える。七光り族で占められた政界、官界を始め、各関連省庁の無駄使いや使途不明金は数兆円にも上ると推測されるが、そのツケは一般庶民の所得税の大幅引き上げと、消費税アップ、年金給付額減額、扶養所得控除削除等々で補う方向で動いている。つまり、理想や夢想を追いかける七光り世襲議員の不始末は一般庶民が負うわけである。今回発覚した道警や福岡県警の使途不明金や搾取金などは全く氷山の一角であり、実際はその十倍以上に上る筈である。県警幹部の二、三人が頭を揃えて「誠に遺憾に思います」でチョン。例え不始末をしでかしたとしても厳重訓告、減俸で処理される。厳重訓告とは「この大バカ者めが!何故バレル様な不始末をしたんだ!もっと要領良くやらんか!」という事であり、減俸とは給与の内から3%ないし5%を減らされるだけで、三ヶ月だけの事である。この事実を見ても判るように将軍様と、その側近の為の政治が行われているのが現代日本の姿である。北朝鮮では今年だけでも三百万人もの餓死者や病死者が出そうだと言われているが、将軍様と側近が安泰であることが重要であり、三百万人の死亡者が出たとしても「誠に遺憾に思う。」と一言、国民世論に対してノタマえば「ヘヘェ〜!」てなもので祝着であろう。現代日本も似た様なもの。
  「サンタ・クロースの誕生」 新 折人 #46
 いよいよクリスマスだ。クリスマスに付き物は「サンタ・クロース」。サンタを題材にしたクリスマス・ソングは、少なくない。ところで、意外かも知れぬが、愛嬌があり子供達に好かれる、今のようなサンタを生み出し、はっきりとした形でクリスマスに結び付けて世界中に派遣したのはアメリカである。
 サンタ・クロースのモデルは、古く小アジアの「ミラ」(Mira)[現在のトルコ南西部]でカトリックの司祭をしていた慈悲深い聖ニコラウス(?~350頃?)ということになっている。しかしこの聖人のことは、ヨーロッパでは長く忘れられていた。そのうち、現在のニューヨークの前身のニュー・アムステルダムを建設したオランダ人が、温存していた聖ニコラウス伝説を、アメリカに持ち込んだ。そして、1822年ニューヨークの神学者クレメント・ムーア(1779〜1863)が、子供達のために聖ニコラウスの詩を書き、〈雪のように白いあご鬚のでっぷりとした体躯のおじいさん、八頭のトナカイが引くソリでやって来て、子供達にプレゼントを渡しに煙突から入って来る・・〉という抜群のキャラクターを与えた。
これをヴィジアルにしたのはドイツ移民のトーマス・ネスト(1840〜1902)という漫画家で、1870年にムーアの詩のイメージでサンタの絵を描いた。但しこのサンタは色彩の乏しい毛皮の服を着ていた。それでも1924年にはガス・カーン(1886〜1941)が作詞して「サンタ・クロース・ブルース」(Santa Clause Blues)という曲が出来ている。次いで「コカ・コーラ社」のデザイナーをしていたスエーデン生まれのヘイドン・サンドブロム(1899~1976)が、サンタはコーラが大好きだということにし、1931年の広告で、コーラのイメージに合う、今のような真っ赤な服をサンタに着せた。「サンタが街にやって来る」(Santa Clause is comin' to town)というおなじみの曲が出来たのは1934年である。
 サンタが乗ってくるトナカイのソリを有名にしたのも、アメリカでの逞しい商魂による。1939年、シカゴに拠点を置くデパートの「モンゴメリイ・ウオード」の偉い人が、クリスマス・セールのための企画を、同社のコピー・ライターであったロバート・メイ(1905~1976)に命じた。彼は、ムーアが考えた八頭に、新たに赤鼻の「ルドルフ」(Rudolf)というトナカイを加え詩にし、お客に配ったところこれがすっかり評判になり、クリスマス商戦を大いに盛り上げた。
このコンセプトをいただいたジョン・マークス(1909〜1985)が、1945年に作詞・作曲して「赤鼻のトナカイ」(Rudolf the Red-Nosed Reindeer)という曲が出来、これまた世界中で聞かれるようになった。可愛くコミカルな曲「ママがサンタにキスをした」(I saw mammy kissing Santa Claus)は、イギリス製で、トミー・コーナー(1904〜1993)が1952年に作詩・作曲した。この曲の冒頭に、〈♪I saw mammy kissing Santa Claus, underneath the mistletoe last night )というフレーズが出てくるが、"mistletoe"とは「ヤドリ木」のことで、「ヤドリ木の下で、ママがサンタにキスしてるとこ見ちゃった」とおだやかならぬ歌詞である。古くからイギリスでは、クリスマスの飾り付けに「ヤドリ木」を使うが、その下に居る女性には、みさかいなくキスをしても良いという習慣がある。そのことを知らないと、この歌詞の二重の洒落、あるいは微笑ましさは理解出来ない。但し日本でサンタを気取ってこれをやると、間違い無くセクハラになる。おまけに1951年に出来た「サンタよ、お前の赤鼻をにぎりつぶしてやりたい」(I wanna squeeze your red nose, Santa)という怖い曲もあるから、くれぐれも用心せねばならぬ。皆様ご無事に良いクリスマスをお迎え下さい!!
ルパンの私書箱〜from 田舎親父 (14)
 私の冬は犬と銃相手で過ぎて行く。雨の日も風の日も、まるで野生化してしまったかの様に、雉子、猪、鹿と追い続ける。私は62才、犬は私よりは老いてるであろう13才、銃は40才となれば仕方のない事かも知れない。私の猟は大物猟と称される猪や鹿猟でも、必ず単独猟であり、他人と一緒にやるのは、時々、射手として雇われるカモの舟撃ちのみです。カモの舟撃ちとは、懐に札束を抱え、外国製の銃を抱え、一発撃てば上半身が仰け反り、目の前が白くなるほど強烈なマグナム装弾を、惜し気もなく海にばら撒く金持ち達が舟と船頭を一日借りてやる猟です。カモは沢山いるが仲々命中せず、並の腕では百発撃っても鳥の尾羽根一枚持って帰れない。それも仕方があるまい。射撃場の足場の良いコンクリート上に立ち、出て来る所の決まっているクレーを、2〜30米の射程で撃つのとは違い、時速40キロで突っ走る小舟の舳先に座り、波飛沫を浴びながら、時には60米先の鳥を狙い撃たなくてはならない。全長7米足らずの漁船の尻に九十馬力のエンジンをくっつけて、波の上を全開に近いスピードで走るとどうなるか?舟にはサスペンションというものはない。デッキを通して波頭は激しく尻を蹴り上げ、ピッチングで首は前後に振られ、ローリングで上体がねじ切られそうになる。従って、有明海には大きな鴨が何万羽も浮かんでいて、その中の眠りこけている奴ら目掛けて、53g、3インチのマグナムをぶっ放せば、一発で5、6羽はひっくり返し、後は何処かの料亭か割烹にでも持ち込み、料理させ・・・等と考えてやって来る。上品なハンター達は乗船3分後には青くなる事になる。銃をケースから出す間もなく、デッキから滑り落ちぬ様、転がり続けぬ様、手摺りに必死に掴まっていなくてはならなくなるかだ。後は船酔いに耐える事。先ず、これに慣れなくてはならない。これは騎乗射撃の様なもので、馬の上で手綱を放していても落馬せずにいられる様にならなくてはならない。それから銃を手に出来る。こういう猟だから、猟果は上がらない。上がらなければ客は来ない。船頭は干上がってしまう。船頭の腕が悪いからカモが逃げてしまい、射程が遠くなり撃てなくて話にならない等と云う事になります。で、船頭は腕の良い射手を雇って、客の後に控えさせ、客が撃っても落ちない鳥を撃ち落とさせる。客の方も慣れてくると、ひとしきりぶっ放し、鳥が落ちないのに飽きてくると、射手に向かって、「今日はでかいのを5羽頼みます。」とか「何でも良いから、一杯撃って。」等と云います。つまり、射手は客が持ち帰る鳥を撃ち落としてやるのが仕事という訳です。従兄弟が船頭をやっている関係で、私は哀れな猟師役を務める事になります。この小さな身体で長銃身の銃に強力な装弾を使い、3人分、4人分を射獲するというのが普通です。私は猪猟には犬を用いません。猪猟では犬の怪我や暴は避けられません。女房や子供は抱かなくても我慢できるが、犬は抱いて寝ないと眠れない性分なので、犬の怪我や死亡には耐えられなかったのです。それで、猪猟はtracking という方法、獲物の跡をつける。徹底的につけ回す。自分でも呆れるくらい追い続ける。すると、何時の日か相手の方が根負けして姿を見せ始める。後ろから来る阿呆を見てやろうという気になるのかも知れない。不安に駆られて、何時も自分の見える所に相手をおいておきたくなるのかも知れない。ゆっくり追う、早く追う、隠れてみる、遠回りして違う方向から接近を試みる等して、猪の反応を見続ける。そして、或る瞬間、私と彼、彼女の瞳が互いにそれと認め合える程に接近した瞬間、入魂の一発を放つ。ここ迄です。後はただ淋しいだけ。一人で木に吊し、喉を裂き、血を抜き、温かい身体に腕を突っ込み内臓を取り出し、前、後趾をバラシ、腰骨を外し、背骨の間にナイフを入れ、幾つかに解体する。袋に入れ運べる分だけを沢に運ぶ。時には4回も射獲した場所から沢まで、沢から車までを往復する事になる。沢の水に浸け肉を冷やし、皮を剥ぐ。4、5時間の重労働となります。私は、これをずっと続けてきました・・・40年間も。