2003.3
ack-ack'通信  03.1/4 ジャズ新年会 破れ太鼓の会〜番外地偏 atコージーエル
 
上記ジャムでの皆さんの勇姿は2月号で・・・なる予告は一月遅れ、当新年会に至っては、古伊万里ジャズツアー等で紙面足らずにて模様も書かず仕舞い。今号の写真同時掲載にてご容赦を・・・?コージーエル初企画につき集まりに協力をとサブタイトルを「破れ太鼓の会〜番外地偏」としたので進行上、混乱(「破茶目茶ジャムセッション」は文字通りプロ・アマ・オープン・ジャムだが、「破れ太鼓の会」は小生の生徒OB&小生に何かを習ったと自覚する人?が年に一度集う会でドラム中心・インスト偏向、かたやコージーエルMon・days Voclists ゆえ)を招くかなと気掛かりでしたが、皆さんジャズ大好きの大人揃い。サブタイトル絡みのセレモニー?も、お屠蘇気分もあってか、皆さん全く意に介されず、何の違和感なく、誠に楽しいジャズ新年会となりました。考えてみますと、 All Of Me Club の土曜日深夜 と大差なく、又、上記ジャムの写真を眺めましても・・・?!?何はともあれ楽しく集えることは<この上ない喜びで〜す。有り難う御座います。鬼が笑っても?来年もやりましょう。 *リスナー諸氏〜O氏、T氏、H氏、S氏・・・に深く感謝、ヴォーカル〜W嬢&ギターのI氏令嬢、ピアノ〜K氏の写真はカメラマン共演中につきないことに深く陳謝!)ちなみに、ハウストリオ+1は、関根敏行(p)、西川輝正(b)、西川喬昭(d)+早川アヤ(p)でした
読者のホ−ム・ページ(66)   Dancing Lawyer
 世界的にはアメリカとイラク・北朝鮮の問題が、何やら「きな臭い」状況になってきた。恐らく、イラクででも戦争が始まれば、日本にとって良いことは何もないだろう。アメリカとて同じだと思うが、ブッシュ大統領は何を考えているのか、戦争でアメリカの景気を回復でもしようと目論んでいるのだろうか?と、うがった事まで考えてしまう。 さて、全く話は変わるが、この初場所で、横綱「貴乃花」が引退した。年齢からは少し早い気がするが、満身創痍で長期間ケガで苦しんだだけに、やむを得ないと思う。もっと早くきれいに引退すべきであったとの声もある。しかし、彼の場合は、まだ年齢的にも若いし、ケガが回復さえすれば、まだまだ相撲は出来ると思っていただろうし、本人も言っている様に、相撲を取ること自体が何よりも喜びであったのだろう。人間、引き際は本当に難しい。「立つ鳥あとを濁さず」といわれるが、引退ということは、どの業界でも、なかなか勇気の要ることである。貴乃花の土俵入りは、本当に美しかった。時代的に少し前では、元横綱「千代の富士」の土俵入りも素晴らしかった。二人に共通するのは、体型のバランスがとれていること、足を上げる高さが高いこと、要所要所でぴしっと決めることであろう。これからは、貴乃花も親方になる。相撲部屋の親方は私も知り合いがいるが、大変である。一挙に子供が何十人もできた様なものだ。特に親方の奥さん(女将さん)のご苦労は、本当に大変である。これからは新弟子を確保すること自体にも大変苦労しよう。モンゴル等外国をあてにしなくてはならない苦しい状況がある。でも、相撲が国際的に認知されることは喜ばしいことだ。決して排他的になってはいけないであろう。でも反面、日本人の立派な力士の育成も望みたい。相撲といえば、今の両国国技館は元横綱の故栃錦(元理事長)が尽力し、各界から寄付を集め、借金無しで建設された。建設を請けたゼネコンは鹿島建設である。故栃錦の迫力(身命を賭する)に当時の鹿島の社長も感動し、利益は度外視して建設に至ったそうである。故栃錦は、「栃若時代」を築き、「まむし」の異名を持つが、「土俵の鬼」の先々代の元横綱若の花(元理事長)でさえ、彼には畏敬の念を抱いていた。今日の相撲があるのも、これら偉大な先輩の人達の尽力があったからこそである。最近の相撲人気には陰りがある。簡単に言えば、スリルが無い、あっけない取り組みが多すぎる。力士達には、もっと技術を磨いて欲しいものだ。貴乃花にも優秀な見せる相撲の取れる力士を早く育成して欲しいと願いたい。スリルが無い・・・The Thrill is Gone・・・?いえいえ決して、叔父さんギャグでは・・・玄人好みの名曲で、レイ・ブライアントのアルバムGOLDEN EARRINGS も、ピアノ・トリオの名盤なのですから!
第34回      エロール・アさカわ
 古い話になるが嘗ての日本は敗戦と云う極限を体験したことがある。どん底生活の中にあって、映画や雑誌で見る欧米諸国の豊かな生活、優雅な生活には国民の全員が憧れたものである。「欲しがりません、勝つまでは!」と云うスローガンを戦前のままに引用し、国民は一丸となって経済の建て直しと発展に努力してきた。幸いにと云っては語弊があるが、戦後まもなく勃発した朝鮮動乱による軍需景気も相まって、日本は驚異的な経済回復と発展を遂げることが出来た。それからの軍需産業は世界平和を唱えつつ、他国間の戦争や内紛によって更に莫大な利益を得ることになった。一時は世界の経済大国とまで呼ばれた日本の土台は此処にあるとさえ云われている。もちろん敗戦後の国民の涙ぐましい努力があってのことだが、当時の国民の全ては「喰うため。」、「生きるため。」、「楽になるため。」と云うことに全ての努力を払って来た。その願望と憧れが原動力となって、今日の日本を築き上げた訳だが、欧米諸国に追いつけ追い越せとの掛け声と共に努力を重ねる内に、実に有り難くない陰の部分まで取り入れてしまった。米国が経済面、科学面、軍需面、文化面で世界のトップの位置にある頃。巷には麻薬常習者、アル中、売春婦、ストリートギャング、異常性犯罪者などが急増していった。現在の日本は経済面での急成長を遂げると同時に、此の陰の部分をそっくり取り入れてしまったのである。此の陰の部分は昭和30年代の半ばから急成長を始めたが、経済面での成長と平行している。物質面での豊かさを追い求める余りに、精神面や情操面の成長が軽視された結果とも考えられる。中国や韓国、東南アジア諸国が追いつけ追い越せと驀進を続ける過程で、願わくは日本の轍だけは踏んで欲しくない。不景気風が吹き荒れている現在の日本ではあるが、決して飢え死にする者はいない筈である。今こそ物質面での豊かさのみを追求することなく、精神面の豊かさを考える時期であろう。日本の知識層の中にはこのことに留意して活発な活動をしている者もいるが、一番考えてもらいたいのは政治家と官僚達である。何といっても国家の進路を決定づけるのは彼等である。現在の十代、二十代の若者達の姿を見れば判ることであるが、このまま、経済面、物質面での豊かさばかりを追求して行くのであれば、日本は近未来の内に自滅することは明白であろう。
アメリカ原産音楽の日本到来  #27   新折人
  アメリカのポピュラーソングは、いつ頃日本に入ってきたのだろうか。周知の通り、江戸幕府は1633年(寛永10年)から、1854年(嘉永7年)まで「鎖国政策」をとった為、220年余の永きに渡って、一部の例外を除いて日本で西洋音楽が聴かれることはなかった。他方、アメリカでは、通常アメリカ人の始祖と言われる、老若男女102人(所謂「ピルグリム・ファーザース」)が、1620年に「メイフラワー号」でニューイングランドに入植して以来、1776年の「独立宣言」を挟み、19世紀半ばまでの間、ワシントン、ニューヨーク等の白人社会での音楽は、賛美歌やイギリス等、ヨーロッパ古民謡の流入時代が長く続いた。例えば、独立戦争時代(1775-1783)に、アメリカで最初に大ヒットしたポピュラーソングの「ヤンキー・ドゥードゥル」(Yankee Doodle)、同じ頃歌われた童謡風の愉快な内容を持ったバラードの「蛙の求婚」(Frog)、有名な「グリーンスリーヴス」(Greensleaves)、南北戦争(1861-1865)時代に南軍兵士によって盛んに唄われた「オーラ・リー(Aura Lee、 Love me tenderの原曲)、アメリカ人が事あると歌う「アメージング・グレース」(Amazing Grace)等を始め、現在はアメリカ国歌となっている「星条旗」(The Star Spangled Banner)のメロディも、すべてヨーロッパ原産の曲であった。つまりアメリカが音楽的にヨーロッパの「揺り籠」から抜け出し、「乳離れ」するには相当の年月を要した。
そして1850年前後になって、やっとアメリカ生まれ、アメリカ育ちの作曲家達の活動が盛んになる。アメリカ初期の白人作曲者として最も有名なのは、なんと言っても「アメリカの吟遊詩人」、「アメリカ民謡の父」といわれたステイーヴン・コリンズ・フォスター(1826?1864)である。彼はデリケートな詩情と感傷、深い愛情と人間性に裏付けられた、美しいメロディと詩を持つ、約200の作品を残した。その曲の多くは、後世「ジャズ」の素材として使われたものも多い。
ところで、日本のご維新前、1853年(嘉永6年)と翌1854年(嘉永7年)の二度に渡って、マシュー・カルプレイス・ペリー(1794?1858)が黒船を率いて日本にやってきて、開国を迫った。その時伴った軍楽隊が、当時アメリカで評判だったフォスターの曲などを演奏した。これが、アメリカ原産のポピュラーソングが日本に紹介された最初であるとされている。 しかし、その数年前、ある男がアメリカの音楽について、恐らくは日本人として最初の記録を残していることは、余り知られていない。有名なジョン万次郎(1828?1894)らと出漁中、1841年(天保12年)嵐で遭難、漂流して鳥島で捕鯨船に助けられ、アメリカに渡りその地で9年間滞在した、土佐は宇佐の漁師、森田伝蔵(1804?1862)である。彼は万次郎と連れ立って琉球を経由して1851年(嘉永4年)鹿児島に帰りつき、薩摩藩の取り調べを受けた。そして時の藩主、松平薩摩守こと島津斉彬(1809?1858)に「漂流記録」を提出したが、その中に、カリフォルニアの「金山歌」の歌詞が、「ウエスバンチヨヲンマイニイ」であったと書いている。これはもとより、フォスターの初期の傑作「おおスザンナ」[Oh! Susanna](1848)の一節、〈♪ ・・with my banjo on my knee.〉の、聞いたままのカタカナ書きである。但し、これを日本に持ち帰った森田伝蔵が、このメロディを口ずさんだり、披露したりしたかどうかは定かでない。  
E・メール名作選-32  (=^_^=)Writen byAYA with Musashi& AsariOtibi-Musashi &Sayori(^*^) 
 
編集長、おかげさまで....僕達、だいぶネコらしくなってきました。飼い主が帰って来たら、みんな眠い目をこすりながら、ドアの前に勢揃い...お迎えポ−ズ。これで、お留守番中の出来事はかなり見逃してもらえるってことがわかった。座布団が..ム−トンが....所定の位置じゃない。食器戸棚が開いていた。引き出しは半開き...。部屋の中に干しておいたソックスがソファの下になぜか移動していた...“私の留守の間、この子達は一体何をしているのだろう?一度でいいから、覗いてみたいものです。"と飼い主はブツブツ言ってます。それにしても、ずいぶんお利口さんになりました。だって叱られると分かっていることは、飼い主が見ていない時にやるようにした。そして、飼い主に発見されると、あわててやめて、ケ−ジの中にさっさと入って、3分間反省ポ−ズ!!これで、飼い主はお利口さんね!って...ついでにかわいい!!って、ここは叱るところってわかっているけど、つい甘やかしてしまうのです。っていうねこの教科書通りのパタ−ンも学習しました。飛び切りは電話の受話器がはずれていた!!!!留守中、編集長のところに、電話してみたんだ!でも留守電だったよ。“多分、どこにも電話してないと思うんだけど、この分だと、アメリカとか、どこだって、かけられちゃう"...と飼い主が騒いでるから、ばれてない模様。飼い主は電話機を入れるケ−ジ探さなきゃ。...と騒いでいます。僕達又編集長のところに電話かけるから、お話聞いてね。名前呼ばれても、わかってないから、編集長に自分の名前言えないと思うけど、飛び切りかわいい声(ウソ!!です。カラスみたいにガラガラ声です)だったら、間違いなく僕達ですから....。

追伸:<男同士のお話> ところで、編集長、バレンタイン・デ−は山積みのチョコレ−トだったでしょ。それなのに、僕ってなんて情けない....。悲しい物語...の日になりました。この家で唯一の男の子、一家の大黒柱!の僕。3人の女の子(オバサンも含む)の誰からも愛されて、頼りにされて....、なのに、誰もチョコレ−トくれなかった。それどころか、その日僕は去勢(ああ~、こんなこと言いたくない...タマ抜かれ手術..)されてしまったのです。主治医の美人のお嬢さん先生まで、"最高のプレゼントね!一生忘れない記念日になるわね"なんて言ってくれちゃって...。編集長、美人は強烈!薄情です。綺麗なおねえさんには、くれぐれも気をつけましょう。  ....from....otibiむさしくん....