2002.3
ack-ack'通信  ボスの喜寿:コンサートも大入り満員御礼(¥77−の袋も出ました)にて目出度く無事?終了。年明け間もない10日にゴルフ場で左足首を骨折したとの知らせを聞きました時には、大橋節夫さんとのジョイント・コンサートも1月16〜17日に控えてましたので、吃驚仰天、一瞬目の前真っ暗!?ご本人様は如何様でしたか・・・小生より明るいには違いないのですが?以降、コンサートまで小生が関与しているだけでも、リハーサル2日間、旅2日間、小生のお願いした仕事2本・・・車椅子にて消化したのですから、大したものです・・・小生の方が譜面やらドレスシャツやら物忘れ激しくヤバイ状況なのですから・・・脱帽! オールオブミークラブを始めご心配をお掛け致しました、関係各位の温かいお心遣いに深く感謝致しますと共に、 チケットをご購入頂いた大勢の皆様に厚くお礼申し上げます。 有り難う御座いました。
ack-ack'通信 
1月末、当貧乏編集局にしましては思いっきり贅沢に、DELL−DIMENSION− 8200を導入!Pen4 2AGHz /インテル850チップセット/RDRAM.512MB/80GB (7200)HD/NVIDIA GeForce3 64mb・・・加えて、IEEE1394&スカジ−ボード、48倍速CD.ROM&コンポドライブ、OSもXP Profesional と重装備にて快調にスタート。仕事もスイスイ・・・のつもりが?スカジーの設定ミスで三日後当たりから不調をきたし、遂には再インストールをする羽目に・・・トホホホ〜情けなや!再インストール後はランも快適にて大幅なスピード・アップにて仕事の捗ること・・・と気分良くしてましたら、ルーターのユーティリティをインストール後、インターネット接続が出来な〜い?又もや前回同様に悪戦苦闘再開?当誌の編集を続けつつ何とか脱却を試みるも、四日現在、未だ不通!共有は出来るのだからラン・カードはOK!ハブも働いてるがヤマハのルーターの奴、どうも怪しいと横目で睨んでる状況?よって、勿論メールも叶わずで、今月の「E・メール名作選」は当方の事情にて執筆者に詫びを入れましての休載と相成りました。な〜に、当誌があがればルータの故障でないことを祈りつつも徹底的にやりますので来月号こそは?此処にペンネームとご近影を掲載致しまして謝意を表します。 (=^_^=)Writen byAYA with Musashi.........to Asari(^*^)
読者のホ−ム・ページ  (54)    Dancing Lawyer
現在、2月下旬、ソルトレイク・オリンピックも間もなく終わりますが、採点に色々と問題があり話題になりました。国内では田中真紀子(元外相)と鈴木宗男議員の論争が話題の中心です。実は外務省が公私混同したい放題の官庁であることは、かなり以前から暴露本(内部告発の形で)も出版されており、私も承知してはおりましたが、鈴木宗男がこれほど悪影響を及ぼしていることは知りませんでした。彼は関西のお笑い芸人「阿保の坂田」さんに似ていると言われていますが、私から見れば坂田さんが気の毒です。鈴木議員の様なタイプは昔から日本に沢山おりますが、いわゆる「外へ出せない」人です。分かりやすく言うと、こういう人を国会議員として海外へ出すと、国の恥になると言うことです。田中真紀子も実の処は同質でしょう。選挙に於いて、我々一が票の重みを真剣に受けとめて投票するしか、今日の日本をましな方向へ持っていく術はありません。政治について書いていて思い出しました。事実かどうか定かではありませんが、クリントン大統領と森総理の会談の際に外務省の上層部?が英語の出来ない森総理に、最初に「ハウ・アー・ユー」と言え、その後、クリントンから聴かれた時は「ミー・トゥー」と応えるよう助言されていましたが、森総理は間違えて最初に「フー・アー・ユー」(お前は誰だ?に近い)と尋ねたのです。クリントンがジョークを利かして「アイ・アム・ヒラリーズ・ハズバンド」と応えると、森総理は今度は教えられた通りに「ミー・トゥー」と返事をしたというのです。私は涙が出るほど笑いました。森総理の英語音痴を笑うのはともかく、外務省・官僚の対処の幼稚さにです。英語が全く分からない人への対処が全く不十分ですし、一国を代表する人間には、むしろ自国の言葉を尊重させるべきでしょう。クリントンが日本に来たからといって、何故、森総理が得意でも無いのにカタコト英語を話す必要があるのでしょう。逆に、ではクリントンは相当に日本語を話したのでしょうか。考えがたいことです。国際人になると言うことは本質的にどういう事が大切なのか、しっかり考えたいものです。ブッシュと小泉だと「ハウ・アバウト・ユー」程度は行けたのだろうが・・・?「ミー・トゥ−」と言えば「トゥー」違いですが「ミーン・トゥー・ミー」なんて曲もありましたね!?!先のような指導要綱では、森総理が「ミーン」を「ミー」とも言いかねない?「ミーンも最後の一行だけは品詞が動詞に変わります・・・ハイ!」なんて指導は・・・あぁ〜無理だなぁ〜?!今宵は、しっかり考えつつの一杯なのだから、クールにリー・コニッツのバージョンで決まりだ!
第23回      エロール・アさカわ
数年前に著名な宗教家の講演を聴いたことがある。その講演は決して宗教色に染められたものではなく、科学社会に生きる私にも興味深く拝聴出来た。特に興味深く思ったのは、この21世紀という時代が真の世界平和へのスタート地点であると言うことであった。人間の歴史が始まって以来、世界中で戦争、内乱う蛮行の途切れた例がない。大国小国を合わせて国旗を有する国だけでも300以上があり、互いに自国の利益を主張し合って鎬を削っている。それぞれ独立国家として国境を定め、向三軒両隣の垣根を高く積み上げてきた。ところが歴史を繙いて見ると、この様な国々の大半は独立国としての主張を固持しつつも、大国と言われるG8参加国や近隣諸国の援助なしには成り立たない国々である。一旦、干魃や大洪水に見舞われると食料援助、経済援助を受けなければ国家の崩壊にも成りかねない。ニューヨーク多発テロ事件を機にアフガニスタンやパキスタンの国土を目の当たりにすることが出来たが、国土の大半が砂漠と岩山に占められた「スタン」国家であれば、他国との平和結鎖が不可欠である。この平和結鎖は発展途上国や小国の間で不可欠であることは当然であるが、米、中、ソといった大国間でも重要性を認め、その糸口を探り合っているのが現状である。今日までの大国は多国間の戦争や紛争を利用して体力の増強を図ってきたが、その為のリスクの多大さにも留意するようになってきたのである。世界の大国が武力に寄って平和が築けないことや、戦争によって得る経済効果には多大なリスクが付いてくる事に気付けば、対話と協調こそが紛争解決の手段となってくるわけである。大国と言われる国々は、何等かの形で他国の紛争に関与してきたが、米国のベトナム戦争介入や、ソ連のアフガニスタン内戦への介入でも共に失敗し、人的にも経済的にも大打撃を被っている。国連と直結する国産科学アカデミーでは1975年頃から国家間の紛争解決に他国が武力介入することのデメリットを説き戒めてきたが、ようやくその兆しが見えて来た様である。大国小国を問わず大地震や干魃、大洪水という自然災害に見舞われれば必然、他国の援助が必要となることは明白である。自分の主張のみを取り上げ、武力を用いて主張を押し通せる時代が過去のものになったことに気付く時、平和結鎖と世界の恒久平和が訪れる。其れが21世紀である。
最後の一葉とラグタイム 新 折人   「ジャズ」の基礎となる音楽は1800年代を通じて、ニューオーリンズに於いて、アフリカ伝統音楽、ハラーや霊歌あるいはワークソング、カリフ海諸国の音楽、白人のフランス軍楽隊音楽、ヨーロッパ民謡やダンス音楽、更には教会音楽、スペイン舞踏音楽などが渾然一体となって、ごった煮となり、高級なワインの如く時間をかけて徐々に醸成されていた。ところが、それは熟成して「蔵出し」出来るようになるまでには相当な年月を要した。かってニューオーリンズの黒人奴隷達は、休日の日曜日の午後ともなると、「コンゴ広場」(P1ace Congo)に集まり、地べたに車座となって、手製の楽器で素朴な音楽を奏でた。そしてやがて19世妃末に奴隷状態から解放され、ピアノにも触れることが出来るようになった黒人ミュージシャンによって、シンコペーションをきかせた「ラグタイム」(Ragtime)が生まれた。次いで1910年頃から哀愁をおびた音楽、ブルー・ノートを持つ「ブルース」(B1ues)が開花した。これらを源流としながらも、かなリ異なる形式の「ディキシー・ランド・ジャズ」が、黒人音楽を模倣した白人ミュージシャンによって世に紹介された。即ち、ニューオーリンズ出身のコルネット奏者ニック・ラロッカが率いる5人組の''Original Dixie1and. Jass Band’(ODJB)が、ニューヨークで、“'Original Dixie1and Jass Band One Step"と“Rivery Stab1e B1ues"の2曲を1917年2月に収録し、そのレコードが評判となり、“Jazz”が“'Jazz"となって、やっと「ジャズ」という呼び名を持つ音楽ジャンルが人々に認知されるようになった。即ち、初期のジャズの形成過程は、詳細を省略して大胆にいえば、1800年代始め頃からの「奴隷達の余朴な音楽」→1800年代末からの「ラグタイム」→1910年頃からの「ブルース」→1917年からの「ディキシーランド・ジャズ」という系譜をたどったことになる。この時代的な経過を頭に入れて、以下を読んでいただきたい。アメリカの有名な短編小説家オー・ヘンリイ(1862~1910)の最も有名な作品の一つにニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジを舞台に1905年に者かれた''The Last Leaf’「最後の一葉」がある.これは、我々も高等学校の英語の副読本などでお馴染みであるが、その冒頭に、主人公のスーが、親友のジャンシーの病状について、「万が一にも助かる見込みがない」と医者に告げられ、日本製のナプキンを涙でぐしょぐしょに濡らした後、気を取り直し、Then she swaggered into Johty’s room with her drawing board,whisting Ragtime.(それから彼女は画板を抱えて、口笛でラグタイムを吹きながら勢いよくジャンシーの部屋に入っていった)・・という一節が出てくる.オー・ヘンリイは当時のニューヨークで、ジャズの源流音楽である「ラグタイム」が流行っていたという風俗を、さりげなく描写しているのである。ところが、日本語版の名訳で知られる大久保康雄の新潮社版では、このくだリが、「口笛でジャズを吹きながら・・。」となっている.この短編が書かれた頃(極く一部では使われてはいたろうが)、まだ「ジャズ」という言業は世間に広く知られていなかった。掲げ足をとるつもりは無いが、時代考証と正確さを欠いた訳と言わざるを得ず、原作者の意図を反映していない。文学的には「ラグタイム」でも「ジャズ」でも大差ないかもしれないが、「ジャズ」の歴史を知ると大いに気になる.ついでに言えば飯島淳秀訳の角川文庫版も「ジャズ」と訳している。「ラグタイム」と正確に訳しているのは、筆者の知る眼リ、大津栄一郎訳の岩波文庫版くらいであろう。