2001.7
ack-ack'通信  6月6日 コージー・エル開店一周年記念ライブ!
 
コージー・エルが開店1周年とは・・・月日の過ぎゆく様をスペースシャトル並みに感じるのは小生だけかと回りを伺いますに、ボス(笈田敏夫)などは、上手く途中下車したらしく?全くのマイペース!悠々自適なる様は誠に持って羨ましい限り・・・流石に人生の達人は斯くありなん!?お祝いに入らして下さった、スリーグレイセス諸嬢、井上 良氏も、はや其の域に達しておられるな〜と拝察。まだまだ修行が足りぬ?等々、感服しながら演奏に熱中?大友義雄(as)、続木徹(p)、横山裕(b)からなるack-ack'4にボスとくれば盛り上がらぬ筈もなく、一時は店内満席状態になるほどの盛況振りにて、先ずは目出度し、目出度し!尚、記念品は当店の会員でもある、O女史のご提供によるものでした。有り難う御座いました。「2周年こそはなんとか自前で・・・」 L女史、談!
6月8日 pm 6:20 訃報 ドン・竹内(和雄)ご逝去
 
コージー・エルの1周年記念ライブを含め 6〜7日と仕事でしたので、今夜はO女史より頂いた上記の品を三崎クラブへ持参致さねばと思い、PCに向かってましたら、金曜日なのに休みの張り紙がしてある旨の知らせが入ったと、O女史より電話があり、信ちゃん(ご長男)の携帯に恐る恐る問い合わせますと、午前11時46分に亡くなられ、丁度ご遺体がご自宅に戻られたところでした。早々にO女史とLちゃんに電話を入れましたが、「ゴジーエルの一周年が終わるのを待って居てくれたんだ!」なる、Lちゃんの一言に、「そうだ、本当にそんな男だった!」と思わず涙が頬を伝いました。2年近くもの闘病生活を経ての・・・「今日」なのですから!上記日程の前ではボスを始め、関係者一同にとっては一大事でした!当方の関係者への連絡も必要なので、2時間ほど時間をおき、心を落ち着かせて伺いましたが、本当にやすらかな良いお顔をしてました。お通夜・告別式は、9〜10日と斎場が一杯の為に11〜12日に行われましたが、9〜10日は両日共に出席不可能だったので、つくづくご縁の深さを感じました(菊地秀行夫妻の時も同様の3日間でした)。O女史の一言も素晴らしいもので・・・一年8ヶ月も自宅に帰られなかったで、智子さんとゆっくり居たかったのよ・・・でした。7年足らずのお付き合いにもかかわらず、これほど心許せる友は居ませんでした。我が真友?の各々方、呉々も御身お大切に?笈田敏夫(vo)、高橋達也(ts)、原田忠幸(bs)氏らジャズ・ミュージシャンを始め、当店の名物ライブ・ご常連、可愛がってた劇団の皆さん、同級生、戸越町内会、三崎町内会、ライブ・スポットのマスタ一同などなど・・・生涯を通して如何に幅広い交友をしてきたかを、如実に物語っている両日でした。 ドンのご冥福を心よりお祈り致しまして、合掌! 尚、大勢の皆さんのお声掛かりにより、追悼ライブが来る9月23日(日)に、三崎クラブにて盛大に催されます。早々のSOLD OUTが予想されます。御予約はお早めに!
  *出演 笈田敏夫(vo) 高橋達也(ts) 原田忠幸(bs) 佐脇武則(as) 大矢江美(vo)
      八月薫子(vo) 金山正浩(p)  福井五十雄(b) 西川喬昭(d)  渡辺雄一
(d)
6月27日 Side By WEST RIVER Side 豪華プレゼント贈呈 
ライブ・スポットへの貢献になればと、小さな声?ながら恥ずかし気もなく、Birthday告知罪を何度か犯して参りました。今回は初めての還暦一年前?という図太い再犯なので、せめて横で寝ころんで聞iいて下さればと、何やら怪しげなタイトルとに・・・?O女史から皆様へのプレゼントをご提供頂きまして、少しは強気で犯行に及びましたが、皆様からも素敵なプレゼントを沢山頂戴しまして、今後の犯行は困難と成りました。23日深夜の、某女性ピアニストの誕生日でバースデイ・ソングを自然発生的に唄ってあげたのが功を奏したか、原田忠幸氏(bs) のセレモニー、Lちゃんのリードにより、皆様に合掌、いえ合唱して頂き、誠に汗顔の至りでした。来年までには必ずや更正を誓うものであります。寺下誠(p)、福井五十雄(b)を加えたカルテットの演奏も近来にない熱演となり、文字通り「今夜は最高」な一夜でした。お越し頂いた皆様に感謝します。有り難う御座いました。    
読者のホ−ム・ページ(46) Dancing Lawye
大阪・池田市の小学校で起こった多数の児童殺傷事件は、誠にショッキングな出来事でした。大半の人が想像も出来ない、愛しい我が子を訳も分からず殺された、御遺族の気持ちを思うと言葉もありません。まだ、事案の解明は進んでおらず、宅間容疑者が精神的に正常か異常かは不明です。精神に障害があるか否かを専門家に分析してもらうことを「精神鑑定」と言いますが、実は極めて困難な作業なのです。このことは、「宮崎 勤」の精神鑑定の結論が分かれたことでもお分かりでしょう。宅間容疑者のケースとて同じ面はありましょう。これだけ科学が進んだ現時点に於いても、まだ人間の精神(心)の中身、仕組みなどは解明にほど遠いのです。アメリカでは精神医学界が精神疾患の診断と統計のマニュアルを作っています。「DSM」と言いますが、改訂を重ねて、現在は「DSM W」に到っています。このマニュアルが一応、国際的にも有名な基準で我が国でも詳しく紹介されています。しかし、十分ではありません。「現象的」には次々と色々なパターンの症状が現れ、十分な原因の分析が出来ず、やむなく「類型化」しているというのが実態です。古くからある典型的な精神病(分裂病と躁鬱症の典型例)は、ほぼ確実に診断できます。(私も含めて素人の方でもある程度解ります)ところが、その境界にある「人格障害」とか「性格障害」になると、たちどころに不明確になるのです。最近、問題となっているのは、この後者のタイプです。日常用語的には個性ある少し変わった性格の人でなく、人間関係、社会関係で犯罪には到らないにしても、しょっ中トラブルを起こすといった、相当変わった人が対象と言って良いでしょう。軽いトラフ゛ルで済めば良いのですが、自殺したり、他人に危害を及ぼす「自傷他害」の危険性のある人が問題です。かかる人の危険性防止に対する、我が国の対策は全く不十分です。現行法でも、それなりに、もっと充実した対処は出来るのですが、関係する機関は逃げ腰です。しかし、池田市などの事件は今後もあり得ます。そろそろ、我が国も精神を病んだ人の十分なケアや、他人への危害防止のために、どういう施策を取るべきか、改めて考え直す時期に来ています。人間の精神の正常と異常を区別する作業は、これからも難問だらけです。しかし、放置しておいたら悲劇は繰り返されます。明日は我が身と思い、且つ精神を病んで悩める人々の立場や権利へも配慮してバランスの取れた制度を確立することが急務です。これも、豊になった先進国の一員としての悩みなのかも知れません。またまた、暗い話しになりましたが重大な問題ですから、皆様も共に考えて欲しいと思い書き連ねました。常々、編集長には専門ネタを寄稿しないようにと釘を差されているのですが、今回は・・・モ?お許し下さると勝手に解釈しつつ・・・ふと「PEACE」なる言葉が浮かぶのだから、小生も棄てたものではあるまい?以前も書いたオーネット・コールマンの「ジャズ来るべきもの」に「ロンリー・ウーマン」と共に収録された、その哀しいほど美しい旋律を、今宵は若き伝承者?ブランフォード・マルサリス(彼は両曲とも取り上げているのだから、ただ者ではない!)の演奏で聞きながら、バーボンと行きますか・・・編集長、ピース・・・ピースですぞ?!?  
 16 エロール・アさカ
 
私は曽て弁護士を志し、不慣れなドイツ語に苦労したこともあったが、ひょんな切っ掛けからミュージシャンに転向して現在に到っている。ミュージシャンへの転向に際しては両親の反対もあったが、自分なりに納得のいく人生であると思っている。近年頻発する凶悪事件と裁判の在り方を見るに付け、弁護士になれなくて良かったと思うことが頻々あるからである。私も法学部の学生であった頃には其れなりに正義感や理想を持ち、情熱を燃やしたものである。大物弁護士の事務所へ顔を出したり、継争中の裁判の進行状況を聞いたり、裁判上のかけ引きや力関係のことを聞いたりする内に、自分が描いていた理想とのギャップの大きさに戸惑いを感ずると共に、自分には弁護士になり得る資質のなさを悟った。特に宮崎勤の幼女惨殺事件、酒鬼薔薇事件、九州のバスジャック事件、宅間容疑者の教大付属小学校事件等々の経緯を見ると、弁護側の楯となっているのは常に「精神鑑定」である。過去の事件を見ても其の内容が凶悪であったり猟奇的であったりした場合には必ず「精神鑑定」に持ち込まれている。この様な裁判には長期間の日数と費用を要するし、例え「精神鑑定」の結果「心神喪失」「精神障害」者であるとの判断が下されれば刑事責任は問わなくなる。しかし、引き起こされた事件は現実の物であり、理由もなく惨殺された側の両親や身内の者は、相手が「心神喪失」者だから仕方が無い・・・といって諦められる筈はない。全く罪の意識もなく平然と殺人を犯し、刑事責任を問われない人間こそ一番恐ろしい。正常者であれば服役中の教育によって反省や後悔の念が生まれることも考えられるが、2〜3年の治療を受けて社会に放たれるということに大きな矛盾を感じる。日本政府は法律によって永年の間「ライ病患者」を、他人に感染する病気ではないのに「気色が悪い」というだけで、瀬戸内海の離島に隔離して、生涯を終えさせて来た。「精神鑑定」を必要とするような凶悪犯罪を引き起こす人間は、昔風に言うならば家系、血筋ともいえるものであり、何代目かに再び現れる可能性を持っていると思われる。この様な人間こそ「ライ病患者」に代わって隔離されるべきである。もしくは、子孫を残さないように去勢するか・・・。人権問題云々もあろうが、精神異常者の人権とは・・・と問いたい。
ジャズとその国際化の軌跡     新 折人 *114〜115Pより抜粋
(3)ラジオ〜(聴覚文化の定義)
時代を遡って1864年イギリスの物理学者JC.マクスウエルが電磁波を予言、1885年にドイツのH.ヘルツ(1857〜1894)がその存在を実証、1895年にイタリアのG.マルコー二(1874~1937)が火花放電を利用して無紋通信に成功した.これらの成果が、やがてラジオに行き着くことになる。ラジオのアメリカでの最初の実験放送は、1906年にクラシック音楽の録音を流すことで始まリ、1910年代後半に様々な実験放送がなされた.即ち、1915年にヴァージニア州アーリントンの500球送信機がフランスのパリに言葉を伝え、1919年には最初の大平洋横断飛行の際、アメリカ海草NC4機の機上でラジオの最初の空中使用なども試みられている.そして、1919年にRCA(アメリカ・ラジオ協会)が設立され、1920年イースト・ピッツバーグで世界初の商業ラジオ放送局が開設された.これは、元ウエステインク電機会社の副技師長であったフランク・コンラッド博士が股立したもので、ステーション名は「KDKA」と言った.次いで、ニューヨーク、シカゴ、ポストン等でも次々と商業放送が開始された.当時は真空管と言った増幅機能を使った受信機は普及していず、人々は「鉱石ラジオ」で音楽を楽しんだ。「鉱石ラジオ」は、竈波を針金を張った簡単なアジテナでとらえ、今で言えば半導体ダイオードの役割リをする鉱石、例えば「方鉛鉱」に金属針を接触させて電波から信号を取リ出し、耳あての磁石式「レシーバー」(今で言えば「ヘッド・フォーン」)で聴くもので、途中周波数の選定に「可変式コンデンサー」(いわゆる「バリコン」)を使うだけの簡単な装置である.増幅装置はなく、わずかな音量を耳をすませて聞き取った。筆者らの子供時代には、勿論真空管方式のラジオはあったが、他方で「ハンダごて」を片手に、『鉱石ラジオ」を組み立てる二とが、科学に目覚める貴重な経験になった.今の子供達はこのような「ハード」を作るより、パソコンなど「ソフト」を操ることに熱中する.老人の繰リ言かもしれないが、「技術立国日本」の将来が懸念される.
閑話休題

 ラジオがアメリカで真空管方式となったのは1925年頃からである.その後ラシオは広く普及、1926年にはNBC,1927年にはCBSと言う全米ネットワークが発足、この頃全米の放送局は700局、受信親台数は約600万台に達していたと言う.これによってジャズは一般家庭のなかに広く深く浸透していった。特にラジオの全国ネットワーク体制の完成はダンス音楽、スイング・ジャズの普及に大きな力となった.この頃、30のスイング・パンドが共演する全米放送などがあり、人々は各地でそれを聴いて踊りまくった.1922年、エセル・ウォーターズを歌手に配したフレッチャー・ヘンダーソン楽団の放送は大好評を博した。ラジオ向けのグルーナー歌手が人気の的となり、1931年にはビング・クロスビイがCBS放送に出演、そのソフトで明るい歌声で大評判となり、放送局はあわててクロスビイ初放送の2ケ月後に「ビング・クロスビイ・ショウ」なる番組を仕立て、ABC放送胴によリ全米に放送した。1934年から、煙草のキャメルがダンス音楽番組「レッツ・ダンス」をラジオで提供し、「ペニー・グッドマン楽団」と「ザビア・クガート楽団」を専属とし、ニューヨークから全米に向けて、3時間ぶっ続けの放送を行った.1935年には同じく煙草のラッキイ・ストライク社が「ユア・ヒット・パレイド」を提供し始めた。これもレコードを使わず、すべてスタジオのバンドと歌手で放送され1958年まで続いた。ジョ二一・マーサー作曲の名曲'Dream’(1944)ほ、たしかこの書組のために作られたと記憶している.1935年8月21日、ロスアンジェルスのパロマー・ホールに出演したペニイ・グッドマン・オーケストラは、予想もしなかった大成功をおさめ、全米で有名になったが、それも全米ネットワークによるラジオ放送がなされたからであった.1937年に後の帝王フランク・シナトラがラジオ・コンテストで“Night and Day’(1932)を唄い第一位となってデビューした.また30年代後半のアメリカでは、24時間放送なども始まっている。なお、それまでのAM放送とは別に、はるかに音質の良いFM放送も1933年に開発されていたが、1938年にVHFによる試験放送が始まった.1939年から1940年にかけて、アメリカで30のFM局が本放送を開始した.さらに、1940年代にはラジオでDJ(ディスク・ジョッキー)が登場する。例えば、ジャズのレコードを紹介するジーン・ノーマンや、チャーリー・パーカーなどの演奏の実況放送を担当したシンフォニー・シッドなどのDJが有名であった.
・メール名作選」-13 
  編集長、うちの飼い主の、ばあすでい、お騒がせしました。でも、お陰様でうちの飼い主、ルンルンで帰ってきました。師匠に帰りの車の中で“君のその一杯のbeerでみんなが振り回されたのね。"と言われてしまった。うちの飼い主、実は午後飲んだ一杯の beerで転んだのです。なんと気がついた時には、“えっ!寝てた!うっそ〜だったのです。で、すぐ行けばいいものをどうせ行けば朝まで帰って来ないに違いないとは把握していて、それからあわてて翌日の仕事の譜面書いて....これが焦っているから、間違ってばかり...。本人は心の底から、みなさんに申し訳ないと反省しつつ...、おそるおそる、出かけて行きました...で、花束抱えて、カードたくさん持ってニコニコ帰って来た。だってこんなにたくさんの人におめでとうって言ってもらえるって思ってなかったんだもん。僕達よくわかんないのに、いつまでも今夜の出来事聞かされて?早く寝ればいいのに、興奮していて、そして1.5時間の睡眠で仕事に行った。編集長のばあすでい、僕達ちゃんとプレゼント用意してたのに、ちゃんと家を出る時持って行かせたのに...なに!その前の仕事場に置いて来たって、とんでもないヤツだ!ネコのお手伝いも出来ない!ネコの手も借りたい気持ちになっても、決してうちの飼い主には、まちがっても頼まないで下さい。僕達、心配で痩せそうです。僕達、編集長のばあすでい、来年から、飼い主に、頼まないで、勝手にやりますから、飼い主に内緒で住所教えて下さい。あ〜、本当にやだ!人間は“ネコの手も借りたい"なんて気軽に言ってるけど、ネコとしては人間の手を借りる時は、相手を選ぶべきだという、教訓でした。