2003.2 | |||
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ack-ack'通信 古伊萬里ジャズ一夜 佐賀新聞での紹介もあり、近郊のジャズファンの皆様、伊万里は勿論、福岡や佐賀から ![]() |
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B-FLAT B-FLATは音響、照明、お客様の乗り良し・・・と、三拍子揃った素敵なライブスポットで、気持ち良くスウング出来ました。次回は東京でギターを弾いてた、マスター・渡部さんとの共演をも・・・。打ち上げは、Nさんのお店で「猪・鹿・鳥(蝶ではなく地鶏?)」を、刺しと炭火焼きで・・・乾杯!ホテルへの帰路、何故か三人で長浜ラーメンの看板に引き込まれ・・・?翌日11時、M&Yさんに帰京する3人を空港迄送って頂き、佐賀へ。着いて間もなく雪が降り出し、以前、山形で「西川さんが雪を運んで来る」と良く言われたけど、6年前の伊万里もそうでしたから、当りかな〜・・・嵐を呼ぶ男?牡丹雪の舞う川上峡のレストランで友人と早めの夕食後、吹雪模様の中、従姉宅訪問を皮切りに、佐高関係へのお礼を、焼き鳥・アブさんに託し、懐かしのジャズバー・ロンド(マスターもお元気で何より)を経て、ピアノが弾けなくなったと聞く勝美君に会いにくーぷらんへ(残念ながら電話のみでしたが、声が聞けて良かった)。舞う雪と共にドアを開けて入るシーンはまるで日活映画でしたよ!いずこも雪の為、お客なし状態に近く、ゆっくり話が出来て最高でした。翌日も雪降る中、途中下車して佐賀時代の近所友達宅を訪ね、中学時代の恩師に電話を掛けたりと楽しい一時を過ごし、6時に福岡へ向かう。先輩ミュージシァン宅(今泉正明(p)の父上)にお邪魔し、奥さんと長い世間話?後、近くの先輩の職場に・・・話し込んでる内に気が付くと8時!残り50分だ〜と、大慌てで地下鉄へ走り、空港ではターミナルを間違い、又もや死ぬ思いで走り、15分前ギリギリにカウンター・・・セーフ(何やら小生の人生そのもの?)。こうして、公私共に?充実した3泊4日のツアーは終わりました。まだまだ書くことは一杯あるのですが・・・。皆様、本当に有り難う御座いました。 ※12月28日破茶目茶ジャムセッション&1月4日ジャズ新年会・ 参加者の写真は次号に掲載致します。 |
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読者のホ−ム・ページ(65) よっぱらいふプランナー![]() 平成9年、あるTV番組の企画からプロを目指した一人の男が、ボクシングの世界チャンピオンになった。元世界スーパーフライ級チャンピオン、飯田 覚志がその人である。飯田氏は、平成2年に日本テレビ「元気が出るテレビ」の「ボクシング予備校」の企画に応募し、プロボクサーを目指す事になる。平成3年にプロデビューを果たし、平成4年に全日本新人王を獲得。平成6年には日本スーパーフライ級チャンピオンの座につく。そして、3度目の挑戦で世界チャンピオンのベルトを手に入れるのである。その後、2度の防衛に成功するが、肩のケガが影響し3度目の防衛に失敗、平成11年に引退した。昭和44年に名古屋で生まれた氏は、高校までは日常に流される怠惰な生活を送っていたが、それを変えようと大学からボクシングを始める。そんな時、「ボクシング予備校」の応募を見た氏は、「プロになれればいいな」という位の気持ちで応募する。晴れて入学を果たしてトレーニングが始まるが、暫くしてスパーリングの相手に選ばれた氏は、プロの凄さを思い知ることになる。相手は、そのジムで下の方のランクだったが、パンチどころか左右どちらのパンチを受けたかさえ判らない内にダウンさせられていたのである。それから、ハードなことで有名になった氏の練習が始まった。「他のチャンピオンの倍練習して、半分の時間でチャンピオンになってやろう」と。「120%の努力をしよう。普段100%でやっていては、本番で120%は出せない」と。「人間というもの、限界を超えると許容量が大きくなっていく」と、氏は述べている。そんな努力を続けた氏も、初めての世界タイトル挑戦では5ラウンドでK.O.される。再挑戦を誓った氏は、「肯定」「感謝」「嬉しい」「楽しい」の4つを心に、今度は150%の努力を続けた。しかし、結果は引き分け。タイトル奪取ならずである。「神様は、乗り越えられない者には試練を与えない」と考えた氏は、即再戦を申し出る。しかし、この対戦で右肩を亜脱臼してしまい、走れない・打てないという日が続くこととなる。再戦はもう目の前。そこで、仕方なくワンツーの練習を、来る日も来る日もひたすら繰り返したのである。そして、遂に!12ラウンド判定勝ち、チャンピオンベルトを手中にする。3度目の防衛戦で肩が完全にはずれてしまい、それを自分で入れて試合続行、12ラウンド戦いきった。当然のことながら、防衛失敗。現在、役者を目指して毎日勉強中とのこと。ひとつのことを成し遂げた人だから、違う世界でも本物になれるであろう。 先日、氏の講演で聴いた話をご紹介したが、それにしても何という精神力。目標を決めて、それを実現するには何をしなければならないかを考え、それを何が何でも実行する。結果が出なくても、それを他のせいにせず、試練だと思い、更に努力する。「自分に勝つ」これが講演の演題であったが、まさしく相手に勝つ前に、自分との戦いに勝つ事が結果を決めるのであろう。氏からは、ひとつのことを極めた人間が持つオーラが出ていた様に思われる。オーラの片鱗も出ておらず、日常に流される怠惰な私だが、氏の講演を聴いて今年のテーマが決まった。「自分に勝つ!」。よしっ、そうと決まれば、明日からの自分との戦いを誓って、バーボンで乾杯といこう。ボクシング=初の黒人ヘビー級チャンピオン・ジャック・ジョンソン=マイルスで決まり。気持ちが高揚してきた。そこで、バーボンをもう一杯。あ〜あ、オーラはまだまだ先かな? |
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やぶにらみ 第33回 エロール・アさカわ 結局、拉致家族問題は中途半端のまま暗礁に乗り上げてしまった。前後の見境もなく騒ぎ立てたマスコミにも責任はあるが、それに乗せられた政府、外務省の対応にも大いに責任がある。拉致問題の解決なくば日朝国交正常化交渉はあり得ないと小泉総理は国民の前で大見得を切ったが、それではと云う事で北朝鮮は2万人を超える慰安婦の問題、日本政府と日本軍に連行された61万人の朝鮮人の問題を持ち出して来た。これらの問題を棚上げしたままで人道主義を云々する日本側の態度は全く笑止であるという事だ。拉致家族問題を煽り立てたマスコミのお陰げで在日朝鮮人たちは、到るところで冷たい視線を浴びる結果を招いている。平和ボケした日本の独善的人道主義など他国では通用しない事を考える必要もある。ましい臨戦態勢にある北朝鮮に於いては無意味である事くらいは、日本より米露中韓海野欣児(b)が良く判っている。「拉致家族問題の解決なくば・・・」と、日本人本意の人道主義をベースにした発言に対し、「あんた、よしなさいよ!」と腹の中で思ったに違いない。此の様な人道主義や拉致家族問題を別にして、例えば日朝国交正常化がなった場合、果たしてその成果を手放しで喜ぶべきか否か。日中国交正常化以来30年間、中国系三国人の来日数は膨大である。勿論、経済大国日本で一稼ぎすることが目的であるが、同時に凶悪犯罪と云う副作用も多発している。売春婦の組織的来日、麻薬組織、窃盗団、香港マフィア等が続々と来日し、日々巨大化しつつある。北朝鮮との国交が正常化されれば、5、6万人とも云われる元工作員達も自由に来日できる事になる。一般の民衆よりも金正日総書記の私設軍隊の中の精鋭が私服に着替えてドッと押し寄せてくる事になる。半端でない軍事訓練、殺人訓練を受けた「北の精鋭部隊」押し寄せることになれば現存する中国系三国人達の組織など簡単に潰され、より強力強大な組織が出来上がるであろう。北朝鮮側は食糧難と経済危機に迫られているから早期の国交正常化を望んでいるのだと云う。日本側の単純な見方では将来大変な問題を抱え込む事になろう。平和ボケした日本人が大好きな人道主義や理念を、北朝鮮側は今日まで上手く利用してきた。しかるに今だに目が覚めず、人道的な考えから米30万トン送った政府関係の団体もあるらしいが、北朝鮮自体が私物国家であることも知るべきである。 |
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「褐色の女彪」ジョセフィン・ベイカー #26 新折人 前回の続きである。初期のヨーロッパへのジャズ風音楽の普及に偉大な足跡を残した一人、アメリカの黒人混血女性、ジョセフィン・ベイカー(1906?1975)について述べたい。1925年黒人レヴュー一座がアメリカからパリにやって来た時、その中に彼女が居た。この一座は、パリの「シャンデリゼ劇場」、「エトワール劇場」、「フォリー・ベルジュール」等に次々に出演した。そして、それまで無名だったジョセフィンが、パリ中に一大センセーションを巻き起こすことになる。彼女はパリの舞台で、ゴム製のバナナを腰にぶらさげ、背中に大きな羽根飾りをつけ、胸を出したきわどいヌード姿で、野性的に激しく震えながら踊り、そのしなやかな咽喉からジャズの歌声を響かせた。それまでの、古い伝統の街パリにはなかった衝撃的な演技に接し、歌を聴いた多くの評論家が、彼女を絶賛し、その評判でパリの人々は、一目「褐色の女彪」を見ようと、門衛を撥ねとばして劇場になだれ込んだ。あまりの評判でジョセフィン・ベイカーは、パリに残り、その後も「カジノ・ド・パリ」など有名なキャバレーのショーにも出演するようになる。ベイカーはショーの本場フランスの舞台に、ハーレム仕込みのチャールストンのリズム等、ジャズの要素を導入してこの新しい文化を紹介し、大成功を収めたのである。 「パリの橋の下」など、400曲余りのシャンソンを作曲したヴァンサン・スコット(1876?1952)は、ジョセフィンのために「二つの愛」(1931)を書き上げて贈った。そしてジョセフィンが、「私の愛するものは二つ、祖国とパリの街」と唄ったこの曲はたちまち大ヒットした。彼女は有名雑誌のカバーを飾り、広告に大々的に扱われ、「ジョセフィン人形」が売り出される騒ぎにもなった。彼女はまた無類の動物好きで、本物のチーターを連れてシャンゼリゼを散歩するなど、パリっ子の度胆をぬいたりしたが、1937年の「パリ万博」では、縫いぐるみながら動物を配した「ジャングル・ショー」を出し物にし、これが万博の目玉にもなった。 それだけではない。ジョセフィンはフランスを愛し、自分の名前をフランス風に「ジョセフィーヌ・バケール」と発音していた。1937年にはフランスに帰化し、第二次世界大戦では勇ましくもフランス自由軍の中尉として従軍、1940年ドイツ軍によってパリが陥落するとレジスタンス運動に身を投じ、その功績から1946年「レジスタンス・バラ勲章」を受けた。自分自身がスペイン人の父と黒人の母を持つジョセフィン・ベイカーは、大戦が終ると混血児問題や戦争孤児の救済にも身を入れた。日本の大磯で1948年(昭和23年)に混血児の養護施設「エリザベス・サンダース・ホーム」を立ち上げ、約2,000人の孤児を育てた沢田美喜(1901?1980)の活動にも、ジョセフィン・ベイカーは大きな影響を与えた。沢田美喜は三菱財閥の創立者岩崎弥太郎(1834?1885)の孫だが、外交官夫人となり、知己をえたジョセフィン・ベイカーを通じて人種差別の実態を知り、福祉活動に身を入れるようになったのである。ジョセフィン・ベイカー自身は、フランスの古城を買取って、国籍の異なる12人の孤児を養子にし、人種や国籍を越えて愛し合う「虹の一族」(Rainbow Tribe)の理想を実現しようとした。数々の貢献で、1961年には、ドゴール大統領から「レジョン・ドヌール勲章」も受けた。 ジョセフィンは、「虹の一族」の維持費用を捻出する為、1975年4月8日に、パリで芸能活動50周年の記念ショーを催した。この「ボビノ劇場」でのショウで、69歳の彼女は元気だった昔ながらのチャールストンなどを、衣装を変えつつ14曲唄い、踊ったが、精魂を使い果たした。そして、昏睡状態に陥り、最後のショーのわずか4日後に神に召された。葬儀が執り行われた「マドレーヌ寺院」に向かう葬列を送ろうと、沿道には2万人以上が集まり、葬儀には各界の名士が参列して別れを惜しんだ。その棺はフランス国旗で覆われ、フランス軍が12発の弔砲を放った。フランスに帰化していたとはいえ、アメリカ生まれの黒人混血女性である彼女が、なんと異例のフランス軍栄誉葬、いわば国葬に準じる形で送られたのである。残念なことに、日本で彼女のことを知る人は少なくなってしまった。 |
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E・メール名作選-31 (=^_^=)Writen byAYA with Musashi& AsariOtibi-Musashi &Sayori(^*^) ![]() 編集長へ みんなは僕達のこと宇宙人て言うけど、僕達から見たら、みんなが宇宙人なんですけど...。本当に困っちゃう。だって何をやっても驚かれちゃうんだもん。飼い主より、ずっと背の高い本箱から、一気に飛び降りたりしたら、もう、大拍手!僕達まだちいちゃくて、飼い主始めみなさんに踏んだらどうしよう?って思われていて、宇宙人・赤ちゃんだと思われていて...、でも、わかったんだ。僕達のこと、ちゃんと真剣に一人前に認めてくれてるヒト、いるんです。誰だと思う?正解は....あさりおねえちゃまです。だから、あさりおねえちゃまは気持ち悪くなったり、食欲不振になったり、大変です。でもね、こんなに心配してくれるヒトいないの。心配かけない様にしたいんだけど、まだどうしたらいいのかわからないの。でもあさりおねえちゃまにいるお家でよかった。飼い主なんてなんの役にも立ってないぞ!それでお忙しい編集長、お忙しいところ、お手数かけますが、僕達の写真、届きましたか?僕達もデビュ−したいんんですけど....。 |